2025年10月29日水曜日

秋の月・秋の味

10月6日は中秋の名月でした。

中秋の名月とは、旧暦の8月15日の月のこと。この日の満月が一番美しいと言われ、古くから月を愛でる日として親しまれてきました。旧暦と今の暦との違いから、中秋の名月は必ずしも満月ではないそうで、実際の満月は今年は10月7日、少し遅めでした。中秋の名月、2022年は9月10日だったので、結構ずれますね。中秋の名月と満月が一致するのは、次は2030年の9月12日だそうです。(前回一致したのは、2023年の9月29日、この絵はその時撮った写真をもとに描いたものです。)

 旧暦とは月の満ち欠けを基準にした暦、1年が354日となり、約3年に1度“うるう月”を設けて調整されます。


今年2025年10月6日の中秋の名月がこれです。天気が悪くて雲だらけ、すぐに隠れてしまうけど雲の流れも速くてまた顔を出す、その時に取った写真。まさに「月に叢雲」、これはこれで風情があります。月に叢雲の続き、知ってますか。「月に叢雲、花に風」美しいものにはとにかく邪魔が入る、世の中は思うようにはいかないという意味ですが、雲のかかった月も風にひらひら散る花も、どちらも情緒があっていい景色とも思えます。


今回の10月の満月はスーパームーンでもあると言われていました。スーパームーンって最近よく聞くようになっけど何?って思って調べてみました。

スーパームーンにははっきりした科学的定義はありません。日本の国立天文台では「地球に一番近い満月」と言っています。その年の満月のどれか一つが、その年の地球に一番近い満月になります。アメリカでは、月の近地点距離を基準としてある距離内にある満月。この場合は1年間に複数の満月がスーパームーンとなります。2025年は、10月、11月、12月の3回の満月すべてがスーパームーンだと言っているネット記事も多く見かけました。これアメリカ基準です。日本基準でいうところの今年の「地球に一番近い満月」、アメリカの基準による今年最大のスーパームーンは、実は11月5日です。満月となるのが22時19分、近地点を通過するのが翌6日の7時22分だそうです。観測したいなぁ、晴れることを願いましょう。

地球の周りを回っている月の軌道は楕円形です。月が地球に最も近づく近地点では地球との距離は35万 6000 km、もっとも遠い遠地点は40万6000km、この5万kmの差によって、月が大きく見えたり、明るく見えたりします。最大で14%大きく、30%明るく見えるそうです。上の資料は今年最大の11月5日の満月と今年最少の4月13日の満月を比べたもの。(国立天文台の提供)
因みに、一番小さい満月は、スーパームーンに対してマイクロムーンと呼ばれています。
満月それぞれに呼び名があって、10月はハーベストムーン(またはハンターズムーン)、11月はビーバームーン、12月はコールドムーン。基本はアメリカ先住民が季節を把握するためにつけた名に由来しています。日本では、月の満ち欠けに名前は付けるけれど、満月そのものに名前は付けていませんね。満月という言葉は英語のフルムーンからきたもの、本来は望月だったようです。

月にまつわる神話は世界各地にあります。
これはインドの神話をモチーフにゴンドアーティストが描いたタラブックスの「太陽と月」という絵本の1ページ。太陽と月は同じ母親から生まれた兄と妹だと書かれています。夫婦だと書かれているページもあります。どのページにも美しく繊細に描かれた太陽と月。見ているだけで癒やされます。
「夜の木」で有名なタラブックスですが、素敵な手作りの本は他にもたくさんあります。

日本の神話では、月の神はツクヨミ(月読命‐つくよみのみこと)。夜の国を治める神です。黄泉の国から帰ったイザナギが、穢れから身を清めるために禊払いをし、左の眼を洗った時生まれたのがアマテラス、右の眼を洗った時生まれたのがツクヨミ、鼻を洗ったとき生まれたのがスサノオ。アマテラスには高天原、スサノオには海原、ツクヨミには夜の国を治めるように命じました。ツクヨミについての物語は少なく、スサノオとツクヨミは同一神なのではないかという説もあります。ツクヨミが保食神(うけもちのかみ)を殺めてしまったことで、アマテラスはツクヨミの顔も見たくないと怒り、それをきっかけに二人は一日一夜を隔てて住むようになり、交代で天に現れるようになったということです。

一般に、太陽と月は対になっていて、片方が男神ならもう一方が女神とされることが多いようです。日本では太陽神アマテラスが女神で月神ツクヨミが男神。ギリシャ神話では太陽神は男性でヘリオス、月の女神はセレーネ―、または太陽神アポロンと月の女神アルテミス、この2人は双子の兄妹とされています。ローマ神話では太陽神ソル、月の女神がルナ。
世界中に様々な神話があり、そこには共通点もあって、とても面白いです。

月の話はこれくらいにして。ここからは秋の味。







まずはお米、新米です。
近所の人からいただいた新米、なんと玄米でした。今までいただていたものは精米されたお米だったのでびっくり。実は私、玄米を自分で炊いたことがありませんでした。この際だからやってみようと、ネットで検索して、初心者だから白米と混ぜるのがいいかなと思って、最初は玄米1:白米3で混ぜて、水は大目に、浸水時間は長めにして炊いてみました。うちの炊飯器には玄米の目盛りもあったので、混ぜたお米だけど、これでいいか、とやってみたら、ちょっと柔らかめだけどおいしい!玄米だからしっかり嚙まなくちゃと言いながらご飯食べて、なんだか新鮮。癖になりそうです。




秋と言えばお芋です。サツマイモがたくさん出回ってきました。
サツマイモは中南米原産。日本には江戸時代、琉球を経て鹿児島=薩摩の国に伝わったのでサツマイモ。鹿児島では、中国から伝わったから唐芋と呼ばれているとか。
今の日本には60種類以上のサツマイモがあって、トップ3は、紅はるか、安納芋、シルクスイート。サツマイモの生産量ナンバー1はコガネセンガン。言わずと知れた芋焼酎の原料です。

千葉県は鹿児島、茨木に次いでサツマイモ生産地の第3位です。千葉で作られているサツマイモは紅あずま、紅はるかが主。この写真は産直で買った紅はるかです。まずは煮て食べて。それからお菓子、スイートポテトケーキに。サツマイモのポテサラもいいですね。ネットで見たさつまいもごはん、炊飯器に洗ったサツマイモ2本ドーンと入れて炊き、炊き上がったらバターを入れて崩しながら混ぜるというやつ、今度やってみようと思っています。



こっちはサトイモ。
写真で見るとよくわからないけど、直径20センチ以上の大きなサトイモです。

見た目はほんとに里芋、っていうか味もちゃんとサトイモです。産直で90円でした。こちらは、鶏肉と煮ました。煮物はおいしいね。筑前煮とかもいいし、豚肉と煮ても、イカと煮ても、厚揚げと煮てもいい。
他には、サトイモのグラタンもおいしいです。ホワイトソースめんどくさいときは、レンジでチンして潰してチーズ掛けて焼くだけでOK 。サトイモコロッケもおいしいけど…しばらくコロッケって作ってないなぁ。

サトイモは東南アジア原産のタロイモの一種。こちらは日本での歴史は長く、イネより早く縄文時代には日本に伝播したとされています。平安時代にはすでに家芋(イエツイモ)と呼ばれて栽培されていたようです。暑さに強く、35℃くらいまでは大丈夫、でも霜に当たると枯れてしまうので、晩夏から秋に収穫される。お正月のおせちに入れるから、冬のものかと思ったけれど、今頃までのものなのですね。土に埋めておくとある程度もつみたいですが。





秋の果物、柿。うちには柿の木が2本あります。でも、渋柿でそのままでは食べられません。数年前までは干してました。私はいわゆる干し柿が苦手なので、切って干すスライス干し柿。ドライフルーツにしてそのまま食べたり、パウンドケーキに入れたり。ところが、最近は暑すぎて干しあがる前にカビがはえたり、腐っちゃったり。こんなところにも温暖化の影響かなんて思いつつ、柿採るのはやめてました。どうせ渋柿だし、ま、いいかと。
今年、ご近所さんから甘柿いただいたので、天日に干すのではなく、オーブンで焼いてみました。一番低い温度でじっくり時間をかけて、2~3時間焼いたかな、そしたらおいしいドライフルーツに。それからもう1種類、甘柿と言っても小さくて種も多く、そのままでは食べにくい。それで柿のコンポートにしたら、とてもおいしく食べられました。剥くのがちょっとめんどくさかったけどね。

そういえば、柿のお料理ってあまり知らないです。柿なますというのがあるけど、作ったことない。昔、夫が大道具の仕事をしてた頃、ちょっと変わった同僚がいて、(男性ですよ)お弁当に自分で柿なますを作って入れてくるという話を聞いて、へーぇと思ったことがあります。
要は普通のなますに柿を入れるということみたいですが、あんまりやろうとは思わないかな。

秋のおいしいもの、まだまだたくさんありますね。
なにかにつけて、その辺にあるものを無駄にしないで食べるには、手間をかけるしかありません。だんだん怠け者になって、なかなかやらないから、自戒しなくちゃと思います。

秋の味も、それから秋の空も、満喫しましょう。11月5日、今年最大のスーパームーン、ぜひ見てください。(2025年10月29日 佳)

2025年9月28日日曜日

棒高跳びの雑学~世界陸上を見て

 

2025年9月13~21日、東京で世界陸上が開催されました。今回の世界陸上で生まれた唯一の世界新記録、それはアーマンド・デュプランティス選手の棒高跳びの6メートル30センチ。この瞬間を目撃しました。(テレビでですが。)金メダルは6メートル15センチをクリアした時点で決まり、その後の世界記録への挑戦。15日の夜の最終競技となり、満員の国立競技場のお客さんは誰も帰ることなく、固唾を呑んで見守ります。そんな中で3回目の挑戦での成功。大興奮のフィナーレ、テレビで見てても神がかってる雰囲気は十分に味わえました。

デュプランティスは金メダルの賞金7万ドル(約1029万円)と世界記録のボーナス10万ドル(訳1470万円)、合わせて約2500万円を手にしました。凄い!


これはXで奇跡の写真と言われている1枚。世界記録の瞬間です。

私はそもそも長距離ファン、マラソンと駅伝はいつも見て、それ以外の陸上はあまり見なくて、オリンピックとか大きな大会で短距離やリレー見るくらいです。今回の世界陸上も、14、15日がマラソンだったので見て、その流れで15日夜のセッションに3000m障害があって、駅伝でお馴染みの三浦龍司選手が決勝に残り、メダル候補になってたので、それを見たくて中継を見てました。三浦選手の結果は8位で、その後妨害かと物議をかもすことになった試合でした。それが終わって、最後に残ったのが棒高跳びだったので、見てたら、はまっちゃいました。

棒高跳びといえば鳥人ブブカ。結構長くトップに君臨して、オリンピックなどでは敵なし、自分の記録の1センチ上を跳んで記録更新を続けてて、なんだかせこいと思ってました。ブブカの世界記録は5メートル94センチから実に17回、最後は6メートル15センチ、世界陸上は6連覇しています。このブブカに記録更新で迫っているのがデュプランティスです。ブブカの記録を破って2014年に6メートル16センチを出したフランスのラビレ二選手の世界記録を更新、2020年に6メートル17センチを跳びました。それ以来14回世界記録を更新し続け、今回6メートル30センチに至りました。

自分の記録の1~2センチ上を跳ぶのはブブカとおなじ、でもなんだか印象が全く違いますね。


棒高跳びの発祥の地はイギリス。川や運河、垣根などを超えるために棒を使ったことにあるとされています。羊飼いたちが遊びでやっていたとの説もあります。紀元前のアイルランドで行われていたティルティンゲームの一種だったという説も。

19世紀後半に競技化されました。

棒高跳びの記録が国際陸上競技連盟に初めて認められたのは1912年、この時の記録はアメリカのライト選手の4メートル2センチでした。


初期の棒高跳びでは木の棒が使われていました。その頃の記録は2~3メートル。木の棒に代わって、しなやかな竹が使われるようになって、記録は4メートル台になりました。

戦前、日本は棒高跳びの強豪国でした。それは良質の竹が豊富にあったから。1932年のロサンゼルスオリンピックでは西田修平が銅メダルを獲得、1936年のベルリンオリンピックでは、西田と大江孝雄が同記録で銀メダルと銅メダルを獲得しました。この時の記録は4メートル25センチ、2人は5時間を超える試合で疲労困憊し、2、3位決定戦を辞退。先にクリアしたした年長者の西田が2位、大江を3位と届け出て公式に認められました。帰国後、銀と銅のメダルを半分に割ってつなぎ合わせたメダルに作り直し、これは「友情のメダル」として永く語り継がれています。


戦後、1960年代になると、グラスファイバー製のポールが登場します。これによって、それまで高さの限界といわれていた16フィート(4メートル87センチ)がクリアされ、記録は5メートル台に入っていきます。棒高跳びの大革命でした。グラスファイバーはガラス繊維のことで、今の棒高跳びの棒・ポールは、グラスファイバーを用いたGFRP(ガラス繊維強化プラスチックとカーボンファイバーによるCFRP(炭素繊維プラスチック)などのいくつかの素材を組み合わせて作られています。竹はしなやかですが、曲げていけば折れる、でもGFRPのポールは360度曲げても折れない。しなやかさの度合いを調整していくこともできます。


実際のポールは、男子選手の場合、4~5メートル。硬すぎても柔らかすぎてもダメ。反発力を生かすには曲がり角度が90度を超えないようなポールを選ぶのがいい。


棒高跳びは、助走をつけて、ポールを「ボックス」と呼ばれる地面の穴に差し込み、その反発力でバーを飛び越える競技です。そうか、ポールを入れるところは決まってるのか。

ネットで見つけた中学生の記事で、彼らは初めはポールを突っ込むことも、ポールにぶら下がることも怖かったとありました。そうだよね、怖いよね。因みに中学生の記録のトップは4メートル60センチ。一般の住宅の2階の窓あたりが4メートルなのでその上くらいの高さ、6メートルだとビル3階分ある、高いよね。


競技ではバーに体が触れても落ちなければ成功ですが、ポールがバーに触れたら失敗。だから跳ぶと同時に、バーを走ってきた方に押し戻す技術も必要。空中で姿勢を変えるので、体操競技のような技術も必要らしい。


ポールの長さ

やり投げの時、解説者がやたらと槍の長さは2メートル60センチって言ってたので、棒高跳びの棒はどのくらいの長さかなと思って調べたら、ポールの長さに規定はないとわかりました。太さも材質も重さも硬さも、規定は何もありません。へーぇそうなんだ。

一般に4~5メートルのポールが多く使われています。選手はバーの高さや状況によって使い分けていて、一人数本持っていくようです。だいたいはバーの高さに応じてポールも長くなる。でもね、何メートルのポールを使っているかは公表されていません。今回のデュプランティスの世界記録についても、調べてもわかりませんでした。


ポールの値段は1本数万円~2~30万円もするものもあります。それを一人数本持つのは大変。そのため、国産の良質で安価なポールの開発に取り組んでいる研究者(元競技者で指導者でもある)もいるようです。


*余談ですが、やり投げの槍は電車でも新幹線でも持ち込めます。本当は2メートル以内とされていますが、2メートル程度で車内で立てておけるものはOK です。実際女子選手の槍は2メートル20~30センチ、2メートル60は男子です。


ポールの運搬

さて、5メートルもあるポールをどうやって運ぶのかという問題。もちろん折りたためないし、分解もできません。そのまま運ぶしかない。

ポールはケースに入れて運びます。このケースも結構いい値段、5本入りで4万円くらい。


運送の方法は、近場だと車、遠方だと配送会社に依頼する、海外だと飛行機。

車の場合は、屋根にのっけて固定するとか、大きめの車やトラックを手配するとか。一般に、運べる貨物の長さは、車長プラスその10%までと決められていますが、警察に許可申請書を提出して許可を受ければ車で運べます。その申請書を掲示し、貨物に縦横30センチ以上の赤い布をつけることで、ポールを運搬することができる、これを赤旗申請と言うみたいです。手数料はかかりません。

ポールを載せて公道を走っていると注目の的になるそうです。


地方の場合、部活で電車で運ぶこともあるらしい。その場合は、人に迷惑がかからないよう、うんと朝早くに集合し、複数人で運び込んでせーので一気に荷台に上げるとありました。競技場内で運ぶのも数人で。チームで助け合いながら。

試合前にすでに疲れるそうです。


運送会社に頼む場合は数日かかるし、競技場のどこに保管されるかなどを把握しておく必要があります。試合の時は、運送会社のブースがあって終了後に配送を頼める場合もあります。よく使われているのは佐川急便、ただし5メートル以下。5メートル以上だと西濃運輸。ヤマトはダメみたいです。

たまに、ケースを間違えるとか、届くはずが届いていないなどの事件も起こります。


海外へ運ぶ場合は、大型手荷物として事前に申請が必要です。海外の試合でもポールが届いていないという例もあるようです。そのため、保険を掛けたり、ポールにGPSをつける選手もいるとか。


競技人口

棒高跳びの競技人口はどれくらいいるのか、これがまた、全然わかりません。国内も世界も、検索しても出てきません。例えば世界では、陸上愛好家は何億人もいたとしても(日本では1000万人、アメリカでは3000万人と言われています)競技者として陸連に登録している人となるととても少ない、ましてや棒高跳びは競技人口少ないベスト3に入る程、かなり少ないのだろうとわかっただけです。


国内では、陸連に登録している競技者が42万人ほど、その中で棒高跳びのランキングでは、一般が440人、高校生が420人、中学生が380人ほど、合わせて1400人ほどでした。陸連以外であとどのくらいいるかわからないけれど、たいしていないでしょうね。

棒高跳びで県内予選に行ったら、5人とか7人とかだったって話はよくあります。

なので全国大会に行きやすいという話もあるけど…。


日本記録は2005年に澤野大地が出した5メートル83センチ。20年も破られていません。2025年のトップは江島雅紀の5メートル70センチ。今回の世界陸上の参加標準記録は5メートル82センチだったので、日本人は誰も達せず、世界陸上への参加はできませんでした。


今年のランキングでの高校生の記録は、1メートル50センチ~5メートル21センチ、中学生は1メートル60センチ~4メートル60センチとなっていました。

なお、世界には2023年6月の時点で、6メートル越えのボウルターが24人いるそうです。世界は遠いですね。


棒高跳びの選手はボウルターと呼ばれます。これに対して、走り高跳びの選手はジャンパーと呼ばれます。


日本記録保持者の澤野大地さんがネットで紹介していたのですが、棒高跳びの関係者で作るNPO 法人ボウタカが運営しているボウタカチャンネルというサイトがあって、そこで棒高跳びに関する様々な記事を扱っています。そこでは、棒高跳びに関する情報の収集、研究と情報提供を行っています。競技のできる場所を掲載したボウタカマップというのもあり、これから棒高跳びを始めたい方にも参考になりそうです。


今回そのサイトを参考にさせていただき、写真も使わせていただきました。(今回の記事の写真はほぼネットからのもの、不鮮明かもしれませんがお許しください。)


最後に、再びデュプランティス選手を。

デュプランティスはまだ若い25歳。

ルックスもよく、婚約者は超美人で話題に事欠かず。試合後、彼女と日本を満喫しているようです。

ポッキーが好きなんですって、かわいいですね。


この先、6メートル30センチの記録をどこまで更新するのか、楽しみです。


(2025年9月28日 水野佳)













2025年8月31日日曜日

2つの展覧会~草間彌生と難波田龍起

今年の夏も暑い!猛暑だからなかなか出かけられない、そんな時のお出かけにぴったりなのが美術館。去年に引き続き、真夏は美術館へ行こう、2025年版、この夏行った2つの美術館、千葉市美術館とオペラシティアートギャラリーをご紹介します。

千葉市美術館で開催中の「未来/追想~千葉市美術館と現代美術」。10月19日まで。

この展覧会、中核が草間弥生。写真はミクストメディア「最後の晩餐」と「幻の青春をあとにして」1980年代の作品です。

草間彌生は日本の現代美術の筆頭に挙げられる作家です。千葉市美術館には19の草間作品があります。一番古いのが1952年、新しいのが1991年作。今回の展覧会では、草間彌生の部屋が作られ、全作品が展示されています。そのうえ、この部屋のみが写真撮影OK。

これは「夜の目」。1975年。水彩、コラージュ、紙。
直感的にすごく好きだなと思った作品です。

こちらは1952年の作品「世界の始まり」墨、インク、パステル、クレヨン、紙。

草間は1948年に京都の美術工芸学校に入学、卒業後に松本の実家に戻ります。その頃、宇宙や原子をモチーフにした作品を描き、精神科医の西丸氏に見いだされ、日本精神医科学会に紹介されました。
子供のころから幻覚、幻視に悩まされた草間、花が、犬が人の顔になり人の言葉で話しかけてきたリ、モノの形が溶けて水玉状になって身体中が、宇宙全体が埋め尽くされてしまうという幻覚に悩まされました。彼女は、それを描いて、記録し、見つめ、対峙するという方法で戦ったといいます。

同じく1952年の「宇宙」。インク、パステル、紙。

身体中が水玉に埋め尽くされるという感じがわかります。すべての物質も自己も、水玉の粒子としてとらえ、増殖と分離を繰り返しながら、永遠の時の無限と空間の絶対の中で、あらゆる物質は回帰し還元されるという草間芸術の概念につながっています。
この2つの作品は、優しい色合いであったり、モノトーンであったり。心に残ります。後のさらにポップでカラフルな草間彌生の水玉の基が、50年代にあるようです。

1957年草間彌生は渡米します。

以降ニューヨークで個展を開いたり、様々な場所で、繰り返し「クサマハプニング」を行い、それによって時代の寵児となっていきます。
また、1960年代から、鏡を使ったインスタレーションを行っています。前面鏡張りの部屋に音楽が流れ、光が点滅する、私は松本市美術館で体験しましたが、すごくきれいです。そのほかにも様々なインスタレーションを手掛けています。
1971年に一時帰国した際は、日本でハプニングを行って逮捕されたりしています。

「Marilyn Monroe」1970年 油彩、キャンパス、金網
「夏」1977年 水彩、油彩、パステル、紐、コラージュ、紙。

千葉市美術館のコレクションには1970年代の作品が多いです。個人的にはどれも素敵だなぁと思います。これなんかちょっとプリミティブアートっぽい。

草間彌生は、1970年代に彼女にとって大きな存在だった2人の人を亡くしています。恋人と父親。恋人ジョセフ・コーネルはアーティスト、恋人とか親友とかを超えた魂の深いころで固く結ばれた存在でした。
父は幼少期の彼女に深い傷を残した、愛憎入り混じる存在でした。


1970年代、草間彌生は多くのコラージュ作品を制作しています。草間アートのイメージ、原色で色鮮やかな作品とは真逆のダークで幻想的な作品群。

恋人のコーネルは手作りのボックスに貝殻やガラスや石など様々なオブジェをコラージュして貼りこみ、独特の世界を作り上げるアーティストだったから、その影響もあるのでしょう。草間はコーネルのことをアメリカ一の天才的芸術家といっています。
生と死に深く向き合った作品、観る人の死生観を映し出します。

「あなたはいつか死ぬ」1975年 水彩、コラージュ、紙


これも1970年代のコラージュ作品。
「我が巣立ち」1975年 水彩、パステル、インク、コラージュ、紙

同じ年に描かれた、亡き父母(母は1984年没)に捧ぐとした「君は死して今」という作品があるのですが、それと何となく似ています。

草間彌生、1929年生まれの96歳。今なお現代美術の先頭を走り続けています。凄い!
いつのころからか草間彌生に魅せられて、折に触れては観に行って、そのたびにすごい!!と。 今回の展示はいわゆる草間彌生とは一味違って、よいです。


今回の展覧会、草間彌生以外にも錚々たる作家の作品が並んでいます。写真はNGなので
1点だけパンフレットの写真を。
「20連発」桂ゆき 1969年。油彩、コラージュ、合板(ベニヤ)

学芸員さんのセンス良くて、面白い作品がズラリ。展示されている作家は荒川修作、赤瀬川源平、河原温、白髪一雄、杉本博司、工藤哲己、イサムノグチ、辰野登恵子、勅使河原蒼風、マルセル・デュシャン…etc。

千葉市美術館の開館は1995年。もとは銀行だった建物を使って、中央区役所との複合施設として建てられました。
1階の銀行だった部分はホールとして残されています。
戦前の建物とあって趣があります。
ここにも立体の展示があって、ここは写真可。
この作品は「複合体101」斎藤義重 1983年。

千葉市美術館はコンセプトの3つの柱の1つに「1945年以降の現代美術」掲げています。(あと2つは「近世から近代の日本絵画と版画」「房総ゆかりの作品」)。2020年に建物全体が美術館となってリニューアル。参加・体験型のアトリエや図書室も備わりました。企画も楽しくていい美術館です。

もう一つの展覧会。
東京オペラシティアートギャラリーで開催中の「難波田龍起」展です。10月2日まで。

難波田龍起は生きていれば今年120歳。日本の抽象絵画のパイオニアと呼ばれる存在です。大正末期に高村光太郎と出会い絵を描き始めました。戦後、抽象へと進んでいきますが、外国から入ってくるものを咀嚼しつつ流されず、特定の運動に属することもなく、独自の道を歩み、抽象絵画の1つの到達点に達した孤高の画家です。
1992年に92歳で亡くなりました。

オペラシティアートギャラリーの寺田コレクションには難波田龍起、史男の父子の作品が多数含まれています。

この展覧会は6つのセクションに分かれています。年代を追って構成されているので、それに沿ってご紹介します。抽象画は説明は不要、ただただ観て感じればいい。なので説明は少なめでいきましょう。



1.初期作品と古代憧憬

内的生命の表現を求めて身近な自然を描き、古代への憧れへ方向性を見出す。

「月と豹」 1937年

「ペガサスと騎士」 1940年




2.戦後の新しい一歩:抽象への接近
戦後の復興する都市のビル、その「直線」に美を見出す。キュビズムを咀嚼しながら直線の構成を経て、幾何学的な抽象に到達。その一方でキュビズム由来の幾何学抽象が持つ非情さを警戒し、人間性豊かな抽象を目指す。


「庭」1951年            「天体の運行」1956年

3.アンフォルメとの出会い

1950年代、ヨーロッパのデュビュッフェら、アメリカのポロックらの抽象がアンフォルメとして日本に紹介され、その「熱い抽象」に大きな刺激を受け、ポロックのようなドリッピング(絵具たらし)、画面を覆うオールオーヴァーなどを取り入れて探求する。

「青い陽」1961年  「蒼」1965年
「紫苑」1969年   


4.形象とポエジー:独自の抽象へ

1974年に次男の史男を、75年に長男の紀夫を相次いで亡くす。2人とも画家だった。

このころから、画面に垂直線とそれとバランスをとるような細切れの水平線が走り、線と色彩を紡ぎだすように全体へ統合する独特な画風が確立。ポエジーと骨格のある造形への意思の大いなる一致。

「円の内と外」1982年




この難波田龍起展の紹介の最初に掲げた写真は
「昇天」という作品。1976年。難波田龍起展のポスターにもなっています。

そしてこちらは「曙」1978年





5.石窟の時間

1988年に制作された水彩画の連作「石窟の時間」を展示。

水彩画らしい透明感と、結晶を思わせる硬質感が不思議な共存をしている。

「人影がふえてくる」1988年

「メルヘンの世界」「草原の午后」1988年


6.晩年の「爆発」

難波田の制作は晩年に至るまで衰えることなく続けられた。1993年には88歳でパリを訪れたりしている。以降、色彩は単色となり、その単色の明暗、諧調で表現され、空間と一体化するようになる。イメージは人間の存在、有機物と無機物の区別を超えて、最も深い意味での内的生命の表現へと至った。





番外編:難波田史男

今年の2月、オペラシティアートギャラリーで今津景「タナ・アイル」という展覧会をみました。ここではメインの展覧会と、収蔵作品からそれに関連しそうなものを選んで展示するコレクション展が同時に開催されます。

その時の展示の中に、難波田史男さんの作品があって、とても興味を惹かれました。隣にお父さんの難波田龍起さんの作品もあり、学芸員さんに聞いてみると、お父さんの方なら近々展覧会を開催しますよ、とのこと。それが今回の展覧会です。難波田史男は、32歳の時フェリーから海に転落して亡くなりました。去年没後50年の特別展が開かれたようです。

さて、現代美術と抽象画に触れた夏。今まで全然知らなかったこんなに魅力的な人達が、まだまだいっぱい居るんだと知って、うれしくなりました。
もっと知りたい!美術館探訪はまだまだ続きそうです。(2025年8月31日 佳)












 

2025年7月28日月曜日

令和の米騒動

去年からお米の値段が高騰しています。店頭小売価格の平均は2024年12月には5キロ4000円を超えました。というか、実際は銘柄米だと平気で5000円を超えてたし、それ以上にスーパーなどではお米のない状況に陥り、大騒ぎになりました

5月に政府が備蓄米の放出という画期的な政策をとって多少値段が下がってきたものの、今でも小売価格の平均は5キロ3500円(備蓄米、ブレンド米を含む平均)を超えています。銘柄米だと5キロ4300円、十分高い。10年前の価格だと5キロ2200円くらいなので、今のほぼ半額です。

令和の米騒動と言われています。ここ30年ほどでお米価格の高騰は1993年と2004年の2回起きていますが、今回はちょっとこれまでとは違うようです。

今回は不作というより需給バランスの問題と対応の不備。2023年産の作況指数は平年並み、生産量は662万トン。2024年産は679万トンと前年より増加、作況指数は101で平年並み。。ただし酷暑の影響による品質低下や需要の増加で30万トンの供給不足になりました。これは備蓄在庫の3分の1程度の不足に過ぎないのに、小売価格はどんどん上昇、お米がない騒動に発展しました。お米の値段について、深く考えたことはなかったので、調べてみることにしました。

うちは、長年、生協でお米を買っていたので、最初は世間の騒動とはあまり関係なく、ちょっと値段が上がってきたな、くらいでしたが、そのうちお米が抽選になって、2回続けて落選して大変!となりました。生協は基本単銘柄ですが、産地や収穫年が違うお米のブレンド米ができたり。今でも抽選体制は続いています。近所の産直にお米を買いに行ったら、こっちも値段が上がってて、なおかつ品質があまりよくなくて。一時期はスーパーには5000円くらいのお米しかなくて、ほんとにお米ないんだと思いました。

過去の米騒動を振り返ってみましょう。

1993年は冷夏で前年比30%以上の大幅な供給減、コメの作況指数は74で著しい不良、外国産米(タイ米、中国米、カリフォルニア米など)の緊急輸入が実施され、平成の米騒動と言われました。当時の需要量は1000万トンだったのに、供給量は780万トン、不足量は200万トンを超え、その時の備蓄米量は23万トンで全然足りず、外国産米を輸入しました。タイ米、食べましたねぇ、お料理番組などでどうやったらおいしく食べられるか、さかんにやってました。うちではチャーハンだったなぁ、と懐かしく思い出しました。

これをきっかけに、コメは一粒も輸入しないと言っていた日本は、コメ市場を部分的に開放し、ミニマムアクセス米が輸入されることになりました。また、この時以降、備蓄米は増量され100万トンとされました。これは10年に1度とされる作況指数著しい不良でも不足しない量ということのようです。

2003年も冷夏の影響で前年比15%減の110万トンの収量減、当時の備蓄米量150万トンに迫る収穫減で小売価格は年間で前年比1.14倍となりました。どちらの年も、翌年の作況は良く一時的なコメ不足で終わっています。


備蓄米とは、政府が不足の事態に備えて米の備蓄を行う制度です。政府が一定量を買い入れ、保管し、必要に応じて市場に放出します。備蓄量は約100万トン(年間21万トン)、約5年間保管され、5年を過ぎると飼料用に転用されたり、フードバンクや福祉施設、学校給食で活用されたり、海外支援に回されルこともあるそうです。


不測の事態に備えているはずの備蓄米ですが、ほとんど放出されたことはありません。1993年も2003年も、備蓄米は放出されていないようです。放出されたのは、2011年の東日本大震災の時に40万トン(当時の備蓄量の4%、被災者への無償提供ではなく、卸売業者への売却)と、2016年の熊本地震の時の90トン(備蓄量の0.009%)という記録しか見つけられませんでした。今回の備蓄米の供給は本当に画期的なことなのです。


今まで備蓄米の放出が行われてこなかったのは、市場価格への影響、買い戻し制度、流通経路の問題があります。備蓄米を放出すると、米が市場に出回って価格が下落し農家の収入に影響を及ぼすこと。入札形式で備蓄米を放出するため、中小の卸売業者や小売業者に不利であること。そして買い戻し制度。備蓄米には放出後1年以内に(最近5年に延長になったらしい)入札で受け渡された業者から同量同品質のコメを政府が買い戻すという条件が付いているそうです。え、何??受け渡しの対象となるのは年間5000万トン以上の取り扱いのある集荷業者、そこから卸売業者、小売業者と流通していくから時間がかかる。備蓄米が放出されても、当初はスムーズに流れず、一向に消費者には届かないという状況でした。どこかが抱え込んでいるのかと疑念を持たれたり、消えた何万トンとか言われたり。このため、小泉農水相は直接小売業者に受け渡し、返納する買い戻し制度もなしにした随意契約による備蓄米の放出を行いました。現在、2022年産の古古米、2021年産の古古古米、2020年産の古古古古米が流通していますが、8月末までの販売になります。これは、申請するときに8月末までに販売できると見込まれる量を申請することになっていたため、8月末までに売り切らないと申し込み資格取り消しなどのペナルティがあるからです。精米能力の問題もあるので、延長の声をあるようですが、5キロ2000円台の備蓄米を買いたい方はお早めに。


そもそもお米の値段はどうやって決まるのでしょうか。

お米には3つの価格があります。JAが農家に提示する概算金、全農集荷業者が卸売業者に提示する相対卸売価格、そして小売業者が消費者に提示する小売価格。

現在のお米の価格のもとになっているのは概算金です。稲刈り前の7~9月頃に、生産見通しと販売契約状況をもとに概算した金額が全農各県の本部が提示され、それをもとに個々のJAが農家に価格を呈示する。また、県本部は保管・運送コストを考え流通経費や手数料を乗せて卸売業者への相対取引価格を決定します。JAお米の取引量は全体の40%で、JA以外の買い取り業者はJAの概算金の提示後に買取価格を呈示するので、基準はJAが作っていることになります。

農水省は「コメの生産量は民間が自主的に決定し、価格は市場で決定されている」という建前ですが、米の卸売市場は現在も日本には存在しません。1960年から自主流通米が認められ、1980年代になると実質的には政府の手を離れましたが、米の価格決定に政府が関与していたともいえます。食糧管理法は1995年まで存在し、それは食糧法に切り替わったけれど、誰でもお米を販売できるわけではなく、2004年にようやく米の流通は自由化されました。でも今でも政府は米の生産量目標の提示は行っています。減反政策は2018年に廃止されたものの、飼料用コメ・麦・大豆などへの転作を促進する補助金制度が存在しています。国は米の価格に関与していないと言えるのだろうか、と思ってしまいます。


日本人の米の消費量は年々下がり続けて一人当たり年間51㎏前後、1962年のピーク時には118㎏だったので半分以下になりました。お米の自給率はほぼ100%。日本の食糧自給率を考えると、カロリーべ―スの自給率は38%なので、自給率においてのお米の重要性がわかります。


令和の米騒動を機に、お米の作付面積を増やす動きが広がっています。需要回復を見込んだ農家さんの判断での作付面積は去年より10ha以上増えるらしい。国や農協の決めたことに従うのではなく、自主的にどれだけお米を作るか決められるようになってきたのは喜ばしいことです。本来、どの作物をどれだけ作るかは、農家が決めればいいこと、当たり前のことがお米についてはそうなっていなかったのだと今頃知りました。現在農協を通して販売される米は4割ほど(かつては100%だった)、スーパーや小売店による直接買い付け、農家直売やインターネット通販など様々な販路ができてきた今だから、農家の自主的な判断が実現可能になった、それを更に推し進めていってほしものです。


これはうちの近所の田んぼの今日の写真。千葉では4月に田植えされた稲が黄色く色づいて頭を垂れてきました。一般には田植えから120~150日で収穫。だとすればもうちょっと。千葉では年々田植えが早くなり、収穫も早くなっています。近年は台風が来るというと、その前に刈り取っちゃおうと作業してるのを見かけたりもします。今年は米不足の影響からか早く収穫するのかな。


余談ですが、稲を収穫した後、もう一度田植えをして収穫するのを二期作といいます。(私はこれを二毛作と勘違いしていました。二毛作はお米の収穫後、違う作物を植えて収穫すること。稲の後に麦とか。)

稲を刈り取った後にまた伸びて穂が出ているのを見かけます。ひこばえといいます。このひこばえを育てて収穫するのが再生二期作。一回の田植えで2回収穫する技術、温暖化を逆手に取った方法として研究されているようです。これ千葉でできそうです。この辺の人はそのままほっぽっといてるけど。

地球温暖化の影響で二期作ができるところが増えているとか。こんなところにも温暖化なのですね。


今年以降のお米の価格はどうなるのでしょうか?

今まで5キロ2000円くらいで買えていた銘柄米が急に倍以上の値段になって、それがもとに戻ればばいい? そうではないようです。多数の農家さんが「お米は安すぎる」とことあるごとに表明していました。一方、消費者は安い方がいい、この乖離が問題です。ある農家さんが、お米の適正価格は5キロ3000~3500円くらいじゃないかと言っています。農家も設備投資やもろもろの費用を払って何とかやっていけて、消費者も納得して払える金額がそのくらいだろうと。なるほどと思える値段です。どうせなら安い方がいいと思ってしまう自分を反省。もちろん銘柄によって、作り方によって、価格差があって当然。ばらつきがあっていい。農協の概算金は地域の銘柄によって一律に決まっています。それに対して卸売業者などに直売している農家は、それぞれ契約して値段を決めているようです。だからネットなどではすご~く高いお米もある。アマゾンで令和6年産有機栽培米のコシヒカリで5㎏13800円というのもありました。それでいいんじゃないでしょうか。どこの農家のどういうお米だからこの値段、まるでコーヒーみたいですが、そうなっていくべきだと思います。

国の役割は市場で売れる作物を自由に作れる環境を整えること。農業を守ることは、補助金を出して農家の収入を保証することではなく、消費者が欲しいと思うような商品を農家が提供できるよう支援すること、そういう観点からお米の流通、価格などを見直してほしいと思います。(2025年7月28日 佳)





初夏の旅~奈良から大津へ

  新緑の美しい初夏の奈良から大津を旅してきました。今回の旅の目的は、特別公開の仏像を見ることと、今まで行きたいと思ってたけどまだ行っていないところに行くこと。 順にご紹介していきましょう。 (今回の旅の目的の一つは特別公開ですが、公開される仏像はほぼすべてが撮影不可です。なので...