2022年2月28日月曜日

やなぎさんの思い出

やなぎさんが亡くなりました。

大好きなシンガーでした。

やなぎさんのことを想うとき、いつもふと浮かぶ歌があります。

♪道の上に突っ立たまま 朝のコーヒーを飲んでいる    もう当たり前のようになってしまった 君から何百キロも離れた町で♪

今日はどこで朝のコーヒーを飲んでいるんだろう、今夜はどこで歌うんだろう、いつもそう思っていました。

……もう歌わないんですね。……哀しい。

やなぎさんとはもう15年以上の付き合いになるでしょうか。初めは、高円寺の稲生座から夫が持って帰ってきた1枚のCD。珍しく聴いてみて、私は、これあんまり好きじゃない、と言ったそうです。(本人はあんまり覚えていないのですが)それが、たまたま稲生座で生でやなぎさんを聴いて、強いインパクトを受けました。たぶんしみじみとした歌もたくさんあったのでしょうが、私の中に残ったのは「バイバイフォークシンガー」という曲でした。

♪バイバイフォークシンガー いんちきフォークシンガー あんたの歌はもう二度と聞きたくない バイバイフォークシンガー いんちきフォークシンガー 俺の歌を俺は歌う♪       

なんだこの歌、って思いました。ステージが終って、やなぎさんに、あの歌は誰のことを歌ったの? と聞きました。彼は笑って答えませんでした。それが始まり。しみじみと心にしみこんでくるような歌を書くやなぎさんですが、彼の内側に潜んでいる反骨精神みたいなものに、私の中のある部分が呼応したのだと思います。

それから私は一人でやなぎさんを聴きに行くようになりました。日本全国を歌って回っているやなぎさんなので、行けそうな時、行けそうな場所を見つけては足を運びました。稲生座にも、夫のライブ以外でお客さんで行ったのは初めて。稲生座で、大森の「風に吹かれて」で、鶴間の「菩南座」で、決して忘れられないようなライブを見ました。特別な状況下で、特別な思いを込めて歌ったライブ、たまたまそこに居合わせた、幸せなことです。

好きな歌は数えきれないほどあります。今から思えば、最初に聴いたCDにもいい曲がたくさん。それらはライブで聴くうちに好きになっていきました。

しっとりした曲で最初に、これいいなあ、と思ったのは「遠い空を想う時」

♪夜中のホームに立ち 来るはずのない汽車を待つ 何処かへ行きたくて何かを変えたくて心はいつも揺れている 遠い空を思う時 帰る場所のない寂しさと とどまることの辛さの間で♪ 

名曲「旅という生活(くらし) 生活という旅」 この曲はすごい。              

♪いつだって分かれ道は目の前にある 生きていくってそういうことだろう 旅という生活の中で 生活という旅のなかで♪ 真理です。深い。(この曲、花巻のとある店のライブで、お店のオーナーの小さな子供たちが合唱していて度肝を抜かれた思い出があります。)

お酒の歌もたくさんあります。中でも「ウイスキー」 水野が歌いたいと取り組んでいるけど、難しいって言ってます。

♪ウイスキーウイスキー 光の水よ 俺をどこかへ連れてってくれ ウイスキーウイスキー 光を集めた水よ 俺をどこかへ ここじゃないどこかへ♪

次第に私の顔を見ると、やなぎさんは「よしみさん、今日は何が聞きたい?」と聞いてくれるようになりました。お言葉に甘えて、いろいろリクエストして歌ってもらったものです。あの頃が一番やなぎさんに浸っていた時期でした。

その中の一つ「明日になれば」。暗いけど大好きな曲です。“月の光も届かぬ場所でびっこの子供が座って”いたり、“ポッケットにナイフを忍ばせて信じるものをふりかざし”たり、“風はとうに止まって言葉はゴミ箱であえいで”いたり。でも ♪明日 明日 明日になれば でも明日はいつだって明日のままだ♪ そう、明日はいつだって明日のままなんだよね、なんでこの曲に魅かれるんだろうといつも思いながら、歌ってもらっていました。

東北の話。

やなぎさんは1994年にご家族で岩手に移住しました。働いて子供を育て、10年ほど経った頃再び歌い始めました。初めは東北中心、2004年に作った「ON THE ROAD AGAIN」というCDを持って、だんだんと活動は全国へ。そのころ、稲生座で夫が出会ったのだと思います。ギター1本持って、自分で運転しながら町から町への旅(生活)を続けました。その傍ら、夏の東北でイベントを開催するようになりました。

私たちが初めて東北に行ったのは2007年。岩手の東和町でやなぎさんが主催した土澤音楽祭。誘われて夫が出演するので見に行くことにしました。そのころ、子どもの手が離れて出かけられるようになって、どうせならと平泉に行き、一関の伝説のジャズ喫茶ベイシーに寄って夫とは現地集合。落ち合うのは花巻の瀬川京染店、ここで土沢音楽祭の前夜祭。(それが先ほどの「旅という…」の子供たちの合唱でした)着物屋さんの奥のスペース、音楽が大好きなマスターとご家族、いい雰囲気のいいライブでした。翌日の音楽祭。町の中の広場にトラックで作ったステージ。町内放送でライブを流す。こんなイベント見たことがなかったのでびっくり。ふと見ると坂の上に美術館がある。ずーっと続いているライブからちょっと離れて覗いてみました。【鎧鉄五郎美術館】というところで、宮沢賢治展をやってました。期せずして素晴らしい展覧会にあたってしまったわけです。これ以降、どこかへ出かけるときは、その地の美術館に寄るようになりました。やなぎさんは主催者として長い髪をなびかせながら走り回っていましたっけ。ライブは、たくさんの人が歌って、フィナーレはみんながステージに乗って、おぉ! って感じで夕方に終了。その後、日が暮れてからの岩手の夜の真っ暗なこと! 漆黒の闇、初めての体験でした。

翌年も土沢音楽祭は続き、また参加しました。この年の会場は河川敷の広い場所。地元の小学生のよさこいとかもあって、規模が大きくなって、関係者も増え、調整が大変だったようです。ここで私は初めてやなぎさんの奥様に会いました。私と彼女が話していると、気になるようでやなぎさんが周りをウロウロ歩き回っているのがおかしかったです。

その2年半後、東日本大震災が起きました。
その時やなぎさんは旅の途中、3日間かけて岩手に帰り着いたそうです。ご家族は無事でした。でも彼が過ごしてきた場所は、ことごとく壊滅。仕事帰りによく寄ったという陸前高田の町も、【ジャズタイムジョニー】も、跡形もなく。馴染みの場所、岩手、東北のために、やなぎさんがどう動いていたのかはよく知りません。彼は歌を作り、ライブの時は必ず東北のことを語るようになっていきました。2012年の春、仮設営業を始めたジョニーで、やなぎさんはライブを開催、それをその場で録音してCDを作りました。夫水野たかしはパソコンを持ってスタッフとして参加しました。それが「'02~'12」というアルバム。その中で、やなぎさんは「2002年6月30日、陸前高田のジョニーでのライブ、今から考えれば、あの日が旅の始まりだったんだと思う。」と述べています。やなぎさんの原点だったのですね。

「ガンバロウ」という歌があります。震災の後、よく歌っていました。ショッキングな歌です。お前は何をしているんだと、突きつけられるような歌。

♪ガンバロウ ガンバロウ ガンバロウ ガンバロウ ガンバロウ ガンバロウと 差し出す汚れひとつない 傷ひとつない手のひら  ガンバロウ ガンバロウ ガンバロウ ガンバロウ ガンバロウ ガンバロウと そこにもここにもあそこにも 言葉が溢れてる

私たちは2012年の秋、高円寺に【炎の雫】を開店しました。やなぎさんに初めて歌ってもらったのは、2013年の1月、今まで共演したりツアーに行ったりとあったけど、主催者としてライブをやったのはこの時が初めて。
以来、高円寺では、だいたい3か月に1度のペースで歌ってもらいました。

このころのやなぎさんは、震災を伝え続けること、そしてジョニーの高台移転と再建のための募金活動の実行委員長になって、文字通り全国を飛びまわっていました。彼の歌はますます磨きがかかり、どんどんうまくなっていくのがわかりました。

私が初めて震災後の岩手へ行ったのは2014年だったでしょうか。やなぎさんと水野たかしのジョニーでのライブ、他何軒かのお店でツアーを組んでくれて、やなぎさんのお宅に泊めてもらい、車で連れてってもらってのツアー。この時、何にもなくなってあっけらかんとした陸前高田、まだ傾いた建物が撤去されずに残されている大船渡、釜石の光景にびっくりしたものです。東北の春は遠い、とブログに書きました。

2014年の暮れ、夫の左手が変な動きをしているのを見て、病院に行こうと連れてってくれたのもやなぎさんでした。その日彼は稲生ライブで、珈琲を飲みに来ていました。当時の職場にやなぎさんから電話をもらって脳出血を知らされました。その日は、たまたまカンタティモールの上映会の前日で、夜中に機材の使い方がわからなくて途方に暮れた私は、稲生座でのライブを終えたやなぎさんを呼び、セッティングしてもらったのを覚えています。やなぎさんは何重にも恩人です。(上映会当日は、名古屋から江口晶夫妻が来てくれることになっていて、お二人の協力で無事上映会は開催できました。)

再び歌の話。

フォークシンガーのラインに連なる曲は、ある一定の期間を経て、時々現れます。それらは、いつも私に強い印象を残します。

「いきるものの歌」  これは震災後の「また歩き出そうとしている」というアルバムに入っています。釜石でたまたま一緒にになった高円寺のミュージシャンが気に入って、あれが聞きたいと言いました。力のある歌です。やなぎさん公認で水野たかしも歌っています。というか、私が水野に歌ってって言いました。すると全然違うアレンジになっちゃたけど、やなぎさんも水野さんらしいと笑ってました。

♪土砂降りの雨の中 隠れるとこなどありはしない 靴の中まで水浸し それでも走り続けるんだ 信じることをやめるな 疑うことをやめるな 届かぬものに手を伸ばし もがき続けることをやめるな♪

2015年、私たちは千葉のいすみ市へ引っ越しました。そのころからやなぎさんの活動はソロではなく“やぎたこ“比重が増えていきました。やぎたこはオールドアメリカンフォークのデュオ。マンドリンとかバンジョーとかダルシマーとかいろんな楽器を使ってルーツミュージックを演奏するスタイルで、一定のファンを獲得して、忙しくなっていました。千葉から行けるところも少なくて、やなぎさんのライブから少し遠くなって。

ある時、ああやなぎさんが聴きたい! と思って、愛知県犬山まで行ったことがあります。「ふう」という喫茶店、やなぎさんに一番おすすめの店はどこ? と聞いたら、犬山の「ふう」と言ったので、えいやと行ってしまうことにしました。この時のライブ、絶品でした。涙が流れました。この時は私たちのように、遠く松本から来た女性もいて、今日は遠くからの人が多いねと言いながら淡々と歌って。「ふう」はとっても素敵な店で彼の歌にぴったり合っていて。松本の女性とはその後、飯田で水野がレコ発ライブやった時に来てくださって再会しました。ご縁はつながるのですね。

やなぎさんのライブは、外房の炎の雫では2回、結局ライブをやる側になってたった7年でした。まだこれから何度も歌ってもらいたかったのに…。それ以外に、やなぎさん、ぷらりとやってきて、CDのための録音をして行ったことが何回かあります。

この最新のCDには、いくつか彼の内なる炎が透けて見える曲があります。これぞやなぎさん、と思うような曲。その最たるものが「貧しい人々」です。辛辣な言葉が並んでいます。

♪パソコンの画面の中に真実なんてない 真実をもてあそぶ悪意があるだけだ 国の最高機関の議事録に正義なんてない 正義をもてあそぶ言葉が並んでいるだけだ …… 売れるものは何でも売ってしまえとばかりに 人を売り 武器を売り 核を売り 種子を売る   しまいにゃ国を丸ごと売り払って 足元をすくわれても ほらもう転ぶ場所もない    僕らはどうしてこんなに貧しくなったのか 僕らはどうしてこんなに貧しくなったのか♪

久しぶりの衝撃でした。今の社会状況、彼の言う通りに進んでいる。何なんでしょう。

この「小さな町の小さなライブハウスから」というCDを持って、炎の雫にライブに来てくれたのがちょうど2年前、2020年2月29日でした。その時、久しぶりに聞いたやなぎさんの歌声に心が震えました。お客さんの中の一人は、翌朝わざわざCDを買いに来てくれて、やなぎさんはこういう出会いがいいんだよなあと言っていました。ちょうどコロナが始まったころで、本当は次の日やなぎさんに高円寺まで連れて行ってもらって稲生座でライブのはずでしたが、中止にして、やなぎさんを見送ったのが最後になってしまいました。

最後に、新しいCDから「はじまり終わり」。

これも名曲です。はじまり終わり……というリフレインのあいだにちりばめられた言葉たちがどれもよくて。「もう二度と出会うことのないたくさんの人たち そして出会えた一握りの人たち みんな笑顔でいてほしいと願う」「心は距離を飛び越せるのか ずっと遠くの悲しみを もっと近くに感じることができたら」 特にドキッとしたのが「人は生まれ人は死ぬ 殺さなくても殺されなくても」というところ。キラッと光る刃のような言葉たち、こんな詞が書けたらと切に思います。

♪はじまり終わり 終わりはじまる ほんの一瞬の瞬きのように はじまり終わり 終りはじまる 明日はどこへ歩いていくのか 人はどこへ歩いていくのか♪

やなぎ 2022年2月9日没 享年60歳 

(歌詞をたくさん引用しました。お許しください)

気が付けば、あっち側にいってしまった人たちが増えちゃいました。みんな楽しくやってるかなぁ。どっちみち近いうちにそちらに行くことになるのです。待っててね。死ぬときまで生きていきましょう。(2022年2月28日 佳)




新生・炎の雫

「炎の雫」新しくなりました。 東ティモールコーヒーから自家焙煎コーヒーへ。コーヒーの銘柄を増やして、カフェでも飲めるし、豆の販売でもご購入いただけるようになりました。 ラインナップに加わったのは、タンザニア・コロンビア・メキシコ・グァテマラ・エチオピアシダモの5種類。 また、焙煎...