2021年4月30日金曜日

自閉症に纏わる2つの映画

2021年4月の終わり、炎の雫のホームページからブログをお引越ししました。


世はコロナ禍の中、東京には3回目の緊急事態宣言が出され、千葉では蔓延防止措置が出ています。ここいすみ市はその対象ではないものの、年末までは数人だった感染確認は、今年になってじわじわと増え、70人を超えました。連休中はお休みしよう、この際ブログのお引越しをしようということになりました。今後とも、よろしくお願いします。

410日・11日に久しぶりの映画上映会を開催しました。ずーっとイベントはやっていなくて、そろそろ何かやりたいなと思い、人数を減らしての映画ならできそうと思いました。以前にシネマチュプキで見た「道草」というドキュメンタリー映画をやりたいと上映委員会にだめもとで相談したところ、定員8人という少人数にも拘わらず快く受けてくださいました。それで土日の2回間で3回上映、各回8席の予約制で上映することができました。

「道草」は、東京都内で自立生活をする知的障害と自閉や行動障害を併せ持つ重度障害者とその介護者たちのの自立生活を追った映画です。
登場人物は4人の障害者とその支援者や家族たち。映画はリョースケさんが道草をしながら歩く場面から始まる。マンホールを踏んで歩き、道に座り込んで花を手に取り、公園でブランコを高くこぐ。鉄橋の上から電車が交差するところを見るのが好き、自分が納得する美しい交差がみられるまでその場を離れない。絵をかくのが上手、運動神経もよく自転車もスケボーも乗りこなす。リョースケさんはアパートで介護者付きの一人暮らしをしている。食べることにこだわりがあり、食べ物をめぐって介護者の中田さんと繰り返すユーモラスなやり取りに思わず微笑んでしまう。

ヒロムさんも介護者付きの自立生活をしている。介護者と一緒に長い散歩をするのが日課だ。歩きながら「タ―」と大きな声を発し、それを介護者の藤原さんがたしなめる。同じことを何度も問いかけ、同じ答えをもらうことが楽しい。やり取りはまるでコントのよう、思わず笑ってしまう。彼も知的障害と自閉・他害があり、小さい時は壮絶な生活だったことをお母様が語っている。

ユウイチロウさんの場合は少し異なる。自分が抑えられず、破壊行為や問題行動が多い。大きな声を出したり、物をばんばん蹴ったり殴ったりするため近所からも苦情が出て、なかなか落ち着いて生活する場がない。お父様が自立を支援する事業所に相談し、介護者との外出を試み始めた。その外出で見せる笑顔、それが終ってしまうことが嫌で不安と苛立ちから出てしまう問題行動。それに淡々と付き合う介護者たち。どうしたら彼のためにいいのかと話し合われる介護者とお父様のミーティングの様子を映画は映しだす。

最後の登場者カズヤさんは、やまゆり事件の被害者で、ご家族ともども唯一名前と顔を公表している。事件後、新しい道を模索して、事業所に相談し、少しずつ親子での時間を取り戻そうとしている。ご家族は「施設に預けていたことは間違っていたんじゃないか、やらそうとすればできたことがあったんじゃないか」と言いながら、今からが青春だと笑って話す。

映画の前半に登場する2人は、今は穏やかに暮らしているから、模範的な障害者みたいに思うかもしれないけれど、その後ろには積み上げてきたものがある。リョースケさんと介護者中田さんは13年の付き合いだという。入所生活が長かったヒロムさんも、自立生活の中で介護者たちとの関係を積み上げて今がある。一般に知的障害や自閉のある人は、人との関係が苦手とおもわれているかもしれないが、そうでもない。ユウイチロウさんも一緒に出掛けたい人の名前を口にする。人が好きなのだ。

私にも、もう10年以上付き合っている障害を持つ人たちがいる。その中には、道草の登場人物と同じ、知的と自閉を併せ持つ人もいる。東京で知的障害者の放課後活動の仕事をしていた時に知り合った。それは当事者のご家族が起ち上げた放課後クラブ(後にNPOとなった)、中高生対象のクラブで、学校(特別支援学校と擁護学校)に迎えに行き、活動場所の区民センターまで歩いて帰り、おやつを食べてちょっとした活動をして夕方までを過ごした。とにかく歩いて帰ることが第一の目標で、道草みたいに歩いたり止まったり、座り込んだり道路に寝ちゃったり、そんな日常。最初はグループで歩いていても、ペースが違うから結局マンツーマン。担当を決めておいて、じっくり付き合うしかない。活動場所に戻っておやつを食べる。おやつを準備して食べて食器を洗って片付けるのをみんなでやるのだが、それも一仕事でした。
学校が長期休みの時は、朝からの活動で一日を一緒に過ごす。一日つぶすのは大変で、外出したり、お昼ご飯を作ったり、簡単な工作や手芸や、歌とお話とダンスの時間とか、いろいろやりました。

思春期の6年間、リョースケさんのお母様曰くの冬の日本海の時代(荒れない日はないという意味)をともに過ごしたことで、彼らとの関係が作られました。その中で、高校を卒業しても時々みんなで調理をしたいという声が出て、ごはんの会を起ち上げました。みんなで集まってお昼ご飯を作り、食べて片付けてちょっとした活動をして解散する会、数か月に一度続けてきました。積み上げてきた関係は確固としてあり、たとえ時間があいてもすぐにあの当時の感じに戻ることができることを、ごはんの会をやるたびに実感しています。共に過ごす時間を重ね、この人は大丈夫と受け入れてもらえれば、いつでも、いつまでもその関係を続けることができるのです。その上、一緒に居るとこちらが癒されます。これは障害ある人にかかわっている多くの人が感じていることだと思います。リョースケさんの支援者中田さんは「一緒に居て楽しい、そう思わせてくれる魅力がある」と語っています。

映画を見ながら、リョースケさんみたいな子、ヒロムさんみたいな子がいたなぁと思い出します。年代的にも同じ年ごろです。ユウイチロウさんみたいな子もいました。ヒロムさんのお母さんのような経験(自分をかませて妹を逃がす)をした人も知っています。私自身も耳をがぶっとかまれたことがあります。そういう時は動揺したらダメ、何にもなかったような顔をしてタオルで抑えながら普通の活動を続けて、相手に見えないところで治療をします。今回の上映会参加者の約半数が障害者との関わりがある人でしたが、それぞれが自分の知っている人を投影しながら見ていたようです。介護者がワイルドでびっくりしたという感想もきかれました。肩の力が抜けて自然に対応している介護者のあり方に感銘を受けた人もいたようです。本当だったら、上映後、コーヒーを飲みながら語り合うのが炎の雫のスタイルですが、コロナ禍で長時間の滞在を避けるためそれができなくて残念です。


映画の終わり近く、ヒロムさんの介護者の藤原さんが「どうして彼らがいるんだろう、何か意味があると思うんですよね」と語る場面があります。その問いは私の深いところに残りました。
それについての一つの答えとなったのが、「僕が跳びはねる理由」という映画でした。

『僕らはきっと文明の支配の外に生まれた。多くの命を殺し、地球を壊した人類に、大切な何かを思い出してもらうために』という、東田直樹さんの言葉。これがその答えです。

映画「僕が跳びはねる理由」は、日本の自閉症の作家・東田直樹さんが13歳の時に書いた「自閉症の僕が跳びはねる理由」という本をもとにイギリスで作られました。当時中学生だった自閉症の東田さんが、今まで理解されてこなかった自閉症者の内面、感情や思考、記憶などについて、58の質問に答えていくという形で書かれています。初めは彼自身の言葉ではないのではと懐疑的に取られたこともあったようですが、大きな反響を呼び、世界中34か国で出版されベストセラーになりました。イギリスでの翻訳者も自ら自閉症の息子を抱え、同じように自閉症の子供がいるプロデューサーが映画化を企画しました。

映画に登場する自閉症の人物は5人。インドの女の子アムリットは、言葉はもたないけれど独特の絵を描く才能に恵まれています。雨の音を聞き、水が落ちるのをじーっと眺め続ける、見たものを絵にすることで表現し、お母さんと額をつけて抱擁をかわす姿には、深い精神的なつながりを感じます。イギリスのジョスは自閉傾向が強く、緑の箱にこだわりがある。シャボン玉を吹いたり、ブランコに乗ったり、跳びはねるのも楽しそう。苛立ってくると自分でコントロールができず、パニックになり他害行為もでる。家族は(両親はこの映画のプロデューサー)全寮制の学校への入学を決意する。ジョスは光への強い気持ちがあり、光を用いたアトラクションでは全身全霊で楽しんでいる。父はそれを「自分には味わえないような喜びを感じている」という。東田さんは、ジョスが一番自分に近いと思うと言っています。

アメリカのベンとエマ、小さいころからお互いに友情を感じて育った。それがわかるようになったのは、2人が文字盤を使って感情や考えを伝えられるようになったから。理解できないのではなく、理解していることを伝えられなかったのだ。それまでの教育は彼らにとって「時間の無駄」であり「人権の否定」だったと言い、お互いの間にある絆を感じ、大切にしている。東田さんも文字盤を使って人とコミュニケーションを取る。アフリカ・シエラレオネのジェスティナは、重度の自閉、言葉もなくできることも少ない。でも幸せそう。途上国ではまだまだ障害についての理解が進んでいなくて、障害を持った子は面倒を見ずに死なせてしまった方がいいとの考えも強い。その中でジェスティナの両親は、自閉症を理解してもらうための活動を続けている。彼らは、この子が幸せを運んできてくれたと言う。

5人の間をつないでいく狂言回しのような役割を、小さな男の子が担っている。彼は時に自然の中を、時に人工的な構造物の周辺を、自由に動き回り、その映像に東田さんの本の中の言葉が重ねらる。自閉症を、多様性を、受け入れられる未来からのメッセンジャーのような存在として登場する男の子。映画のパンフレットの冒頭には、その男の子ジム・フジワラ君の姿と共に、「みんな同じ空の下、“普通”の君と自閉症の僕との未来はきっとつながる」とのメッセージが添えられています。

監督の意図は、観客を自閉症の人たちの世界へ連れていき、彼らが感じている世界を体験してもらうこと。それを音とビジュアルを使って表現する。例えば、普通の人が全体を見てから部分を見るのに対して、自閉症の人はまず部分が飛び込んでくる、その美しさに魅かれ目が離せなくなり見続ける、そのことによって自分が落ち着く、それをこだわりと言われるのですが…。アムリットの雨、ジョスの箱…。(私の知ってる人はエアコンの室外機が回っていると、動かなくなるので、エアコンついてないといいなと思いながらお迎えに行ったりしてました。回っていなかったらすっと通り過ぎてくれるのですが、一度見始めたら何十分も見ていて、そこから離すのが大変でした。)

この映画を見て、東田さんの本を読んで、そうだったのか、そんな風に見えてるのか、聞こえてるのか、と思うことはたくさんありました。でも一番ショックだったのは知的能力のこと。監督は「軽度・重度、低機能・高機能といった単純化された考えから離れ、自閉症の人のそれぞれの問題を理解し、見方を変える一端を担えればと思っている」と言っていますが、まさにそのこと。長い間、自閉症の人と関わってきて、彼らには彼らなりの感情も心もあることはわかっていたつもりでしたが、どうしても身体の障害とは違うと思っていました。どこまでわかっているのだろうと思うこともしばしばでした。彼らの中に、表出されない言葉や考えがたくさんあって、知的能力の高い人がたくさんいるのであろうことに思い至りませんでした。それをこの映画は教えてくれました。

「道草」の中で問われた自閉症の人の存在意義について、きっと答えはたくさんあるのでしょう。まだまだ考え続けなければならないと思います。
ただ、自閉症の彼らのものの見方は、どこか古の人たちのあり方に通じるところがあると感じています。人間が自然と一体に生きていた時代、人が木や花や風と対話しながら生きていて、喜びを、怖れを感じていた頃、人は今よりもずっと満ち足りていたのかもしれません。それと同じような感覚が自閉症の人にはあるようです。東田さんは「山も木も建物も鳥もすべてのものが一斉に僕に話しかけてくる。その時一番関心があるものと対話が始まる。それは言葉による会話ではなく、存在同士が重なり合うような融合する快感です」と書いています。そんな体験が彼らの中に眠っているとしたら、彼らはものすごく豊かな人間なのかもしれません。

「僕が跳びはねる理由」、千葉ではTジョイ蘇我で公開中。(2021430日 水野佳)














 

新生・炎の雫

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