大型連休の最終日、5月6日の「カンタ!ティモール」上映会と南風島渉さんのトーク&水野たかしミニコンサートのご報告です。
昨年の11月以来、半年ぶりの上映会。南風島渉さんの写真展示もあり、連休で東京から足をはこんでくれた方もありで、盛況でした。
映画については、過去何度か書いていますので、興味のある方は探して見てください。今回は主にトークの内容について書きます。
南風島渉トーク
南風島さんにとって東ティモールとはどういう存在ですか?
世界のどこの紛争地とも違う特別な場所。他の紛争地では、勢力争いをして内部から崩壊していき目的を達成できないところがほとんど、それなのに東ティモールは大した武器も持たず、24年間の闘争を乗り切って独立を勝ち取った、悲惨な状況の中でも人々は明るく未来を見ている、これは何なんだろう、そこに何があるんだろうと思う。そこに、世界を平和にするための基本的な教え、フィロソフィーがあるのではないか。
ゲリラたちとの関係
「東ティモール民族解放軍のゲリラ兵士たち」の写真で
この写真の真ん中に写っているのは、当時の現地最高司令官で現首相のタウル。彼は人間味あふれる魅力的な人物。軍に見つかったら即撃たれるという状況下、月が隠れるのを待って会いに行くと、満面の笑みで迎えてくれる。「俺だったらこんなひどいところには来ない、よく来てくれた!」「戦争はこりごり、頼むから戦争を止めさせてくれ」と言う。なぜヒューマニズムを失わずにいられるのかと思った。当時、東ティモールへは、インドネシアのビザを取って行った。96年のクリスマスから97年の正月をゲリラたちと共に過ごした。もう一年生きられるといいねと言いながら、彼らはとても明るかった。
「かつてのゲリラキャンプ地に集まった元兵士、元地下活動家たち」の写真で
映画の中で、ゲリラ兵士たちに司令官が「生きて帰ってこい」と言うシーンがまさにこの場所。当時は蔦草が生えて秘密基地のようだった。すぐ下の道路を軍のトラックが通る。そこに潜んでいる、ゲリラたちを支えたのは市民。
東ティモールには二度と行くまいと思った93年
93年に隠された紛争地で、世界が驚くようなすごい写真を撮って、有名なジャーナリストになってやると意気込んで行った東ティモールだったが、インドネシアの監視が常に付き、何も取材できない。その時知り合った若者の実家で撮ったのが「伝統的な家屋で繕い物をする少女」の写真。(*美しい写真と評判)その時はもう二度と行くまいと思っていた。ところが帰り際に「次はいつ来てくれる?」と言われ、もう1回だけ、を続けた。
日本こそが大事
当時先進国の中で唯一インドネシア支持を続けていた日本、日本がインドネシアを支え続ける限り東ティモール問題は終わらない。それをティモールの人も世界も知っていた。だからこそ「日本の人にぜひ知ってほしい、日本こそが大事なんだ」と。軍に見つかったら国外退去となるだけの外国人、でも一緒にいた東ティモール人は殺される、それでも「今度来るときまで生きているかわからないけどまた来て」と言われて、もう1回だけを繰り返した。
歴史が動き出す
93年頃までの20年間、東ティモールのことは誰も知らなった。インドネシアによって見えないように隠されていた。日本を含めて各国の国会議員団の視察もあったが、インドネシアによって完全に情報はコントロールされていた。日本の外務省は東ティモールをインドネシア領であるとしていて、ポルトガル領だと書くと外務省から圧力がかった。
(*実際は東ティモールはポルトガル領で、インドネシアが違法に侵略していたのだが。今でも旧インドネシア領とする間違いがよく見られる。独立の時に監督の広田奈津子さんと同行したテレビクルーが独立の過程を描いた番組を作ったが、放送は1度だけ、ディレクターは地方へ飛ばされそれ以降の放送はなかった、今でいうそんたくか)
96年のノーベル平和賞をきっかけに歴史が動き出す。
国連軍が入り、外国人ジャーナリストが多数入り、各国から住民投票監視団が入った99年。98%の投票率で独立が決まった。東ティモールに通いだしてから7~8年、始めは鉄砲の弾もないようなゲリラに独立ができるのかと半信半疑だった。しかし彼らは、間違ったことはしていない、未来は開けるはずと信じ続けた。絶望の中で希望を捨てずに未来を切り開いた彼らに、ぐうの音も出ない。
暗黒の9月
独立が決まった直後、インドネシア軍が暴れだす。焼き討ち、虐殺。国連も外国人ジャーナリストも国外へ逃げ、命がけで投票した東ティモール人だけが残された。その間、軍はやりたい放題、結局東ティモールの9割が焼かれた。「まだ死ぬのか、まだ苦しむのか」とシャナナ。
日本は変わっていないのか
インドネシアはスハルト大統領がいなくなり、少しずつ民主化へ向かっている。
では日本は?75年から8年間、国連決議に反対してインドネシアについた日本、当時はごく一部の人しかその情報を知らなかった。今はインターネットの普及もあり、おおっぴらにできなくなっている。でも大きな構図は変わらない。日本人が、より豊かに、より安いものを、より簡単に手に入れるために、政府や企業が動き、安い資源を手に入れようとする。原発が止まってもライフスタイルは変わらない。では資源はどこから持ってくるのか、資源国へ圧力をかける、するとその国では地元住民が武力で追い出されることになる。
「スラウェシ」の写真で
天然ガスと石油の問題、地元の住民を追い出し、日本の援助で石油プラントを作って安いガスを日本へ送ろうとしている。(*今回の写真展開催はこの写真がきっかけ)
平成は平和な時代だったのか
元号が代わって、平成は戦争のない時代だったというけれど、本当にそうだろうか。たしかに日本人が直接手を下して人を殺すような戦争はなかった。だが、僕らのお金が、僕らの政府の国際的な発言が、資源国や弱い立場の人を痛めつけて、そこから利益を吸い上げている、これははたして戦争とは言わないのか。東ティモール、アチェ、パプア、スラウェシ、ミヤンマー、各地で行われている紛争。日本の暮らしを支えるための代理戦争ではないか。それを知らずに、平成は平和だったというのはあまりに身勝手ではないか。
独立後の東ティモール
独立後17年。首都ディリはビルが建ち、ショッピングモールもできた。道路も整備された。通貨はドル。外貨の獲得は石油、一般市民レベルで細々とコーヒー、それ以外には資本主義で闘えるような産業がない。経済は石油に依存。それを長いスパンで大切に使おうとする勢力と、インフラ整備の要望に応えてお金を使いたい勢力とのせめぎあいの状態。自分たちの都合のいいように国を作らせたい世界の資本主義国に対して、それじゃダメだと抵抗し、彼らの価値感をもとにそれを守ろうとする人たちがいる。
一例をあげる。独立後、水牛で田んぼを耕す人たちに世界中からトラクターが贈られた。それに対して、これを使ったら、燃料や部品を買わなければならなくなり、お金がなければ農業ができなくなる、やめようと言ってそれを止めた人たちがいる。それが東ティモール人のすごいところだと思う。
(話は尽きませんが、ここらで…)
この後、水野たかしのミニコンサート。
水野の歌について、いつもは書かないし、セットリストを出すこともないけど、今回は少し書いてみます。なぜかというと、歌われた曲はみな「カンタ!ティモール」に通底するものだから。
1曲目 “SHARE”「we share the sky, we share the sea, we share the world, we share this earth」私達はこの地球を分かち合っているのです。
アレックスとレオのおしゃべりに「そんなんじゃこの地球はもたない」というのがありましたね。
2曲目 “Alex”「戦いの地に生まれ、戦うしかなかった~闘う術は歌だった」2017年11月9日に旅立ったアレックスに捧げると同時に、「残されたものは歌を継ぐ」アレックスの想いを受け継ぎ、歌い続ける人たちに捧げます。
3曲目 “願い”「流れる水に空に大地に、そこにもここにも神は宿る」「私が私でありますように、あなたがあなたでありますように」一番新しい歌です。
4曲目 “Moris Foun” 映画の中盤でアレックスが歌っている曲に、原詞の意味を踏まえて日本語の詞を付けました。水野は前からこの曲を歌いたいと思っていましたが、アレックスの死後、南風島さんに背中を押されて、追悼会に間に合いました。まるでアレックスが降りて来て作らせてくれたようでした。
5曲目“ヘイ!マルシーラ” 言わずと知れたカンタティモールのテーマ曲。いろんな人が歌っていますが、サビを入れたバージョンを作りたかったのです。サウンドトラックの歌詞カードで元の詞をにらみつつ、できるだけ意味は近いようにと日本語を考えました。
カンタティモールの上映会では、いつも、この歌を最後にみんなで歌っています。
(ちなみに、今日のすべての曲の歌詞は私が書きました。)
ちょっと長丁場になってしまいましたが、5月6日の上映会は無事に終了しました。
この後、6人の方が残って、南風島さんを囲んでいろいろ話しました。アジアの紛争地の情勢、平和のこと、農業のこと、多彩な話題で盛り上がりました。とてもとても有意義な時間を過ごすことができました。
来てくださった皆さん、南風島さん、ありがとうございました!
[カンタ!ティモール」の上映会はご希望があればいつでも開催します。
どうぞお声をかけて下さい。(2019年5月10日 佳)