2025年11月27日木曜日

炎の雫・外房10年記念ライブ

炎の雫が外房に移転して、この秋で10年を超えました。

(私たちがいすみに移住したのが2015年6月、炎の雫の再開店が10月でした。)


これを記念して、11月16日の午後、「炎の雫・外房10年記念ライブ~気がつけば 時は過ぎゆき~」を開催しました。

最近のライブでやっている歌と手話のコラボも含めて、水野が今歌いたいと思った曲だけを詰め込んだ2時間ちょっとのライブ。


おかげさまで大盛況、皆様とともに素敵な時間を過ごすことができました。

本当にありがとうございます。


カフェ炎の雫は2012年に東京・高円寺で生まれ、生音ライブ、映画上映会、アート展示、イデアの雫(人と出会い話を聞く会)、ごはんの会(ユニバーサルな昼食会)等、さまざまな活動を行っていました。2014年の12月、水野たかしの脳出血をきっかけに、東京を離れ、ここ千葉いすみ市へ。移住から4か月後、現在の炎の雫をオープン。高円寺の時より少なくなったとはいえ、ライブや映画上映会は続けてきました。それがコロナをきっかけに途絶えてしまって…今回久しぶりのライブでした。



今回のライブ、歌詞とともに紹介させてください。(こんなことほぼしないんだけど。♫と♫の間は歌詞です、切り取りは私の独断。)


スタートは水野たかし定番の「ホーボーズララバイ」。

 

♫ 町から町へとさまよい歩く 

 長距離トラックのうなりが 俺らにゃ子守唄 ♫


これをやるとなんかのってくるらしい。


2曲目は「祈りの唄」

 

♫ 忘れられないなら忘れなくてもいい 思い出と一緒に生きればいい

 天地あまねく命を抱きしめて つらい夜をやり過ごす ♫


この曲は東日本大震災の後で作った曲です。


3曲目「ほろ酔い気分」


♫ ほろ酔い気分に優しさが顔をのぞかせる 

 今日も一日生きた 少しだけ前に進んだ ♫


水野の歌にしては珍しくカバーしてくれている人もいる曲です。


この後は手話コーナー。


まずは水野の歌と私の手話のコラボの原点になった

「ヘイ マルシーラ」


♫ 大きな力に惑わされるな われらの過ち大地は知る

 ヘイマルシーラ ヘイウルシーラ 大地よ力を与え給え 

 この身も心も大地とともに ♫ 

(マルシーラ=みんな、ウルシーラ=大人たち)


高円寺時代から上映会を続けてきたドキュメンタリー映画「カンタ!ティモール」のテーマソング。カンタティモールの上映会のきっかけになったのは名古屋のミュージシャン・江口晶さん。夫の古い知り合いで上映会を企画して上映&ミニライブ&シェア会を続けていました。高円寺の上映会の時も何度も名古屋から来てくれました。

その頃、彼がこの曲を歌い、当時の奥様がフラを踊るというのをやっていて、素敵だなと。私は踊れないけど、手話ならつけられるかとやり始めました。どうせならと歌詞も原曲の意味に沿って訳し直して、上映会の度に歌ってきました。

(写真はこの曲を作ったアレックス。映画にも出演しています。)


次に「メメントモリ」


♫ 人は愚かで間違えるけど 外しちゃいけない道がある 

 生を思え 死を思え 本当に生きているのだろうか ♫


これはコロナで日本全部が封鎖された時のことを書いた歌。

水野のステージに立って手話をつけるという形でやってきました。(この写真は今回のライブの写真ではありません。撮影は南風島渉さん。)


千葉に来て出会ったものの1つにポエトリーリーディングがあります。2019年4月、ご縁があって、詩人たちが集まって朗読をするイベントを開催しました。この時は5人の方が出演してくださいました。個性的で実力ある方が集いました。その中のお一人詩人の大島健夫さんが主宰する詩のオープンマイク「千葉詩亭」に参加させていただき、歌詞を手話をつけながら語ったことがあります。それで目覚めて、ライブの時ちょこちょこやらせてもらっています。


今回、2つの歌を合わせてリーディングバージョンを作りやってみました。

「Justice & Love」


«大切なのはこれ以上傷つけないこと 心の中に正義と愛を持っていること 

 目をしっかり開いて 背筋をピンと伸ばして 愛を持って正義を貫きたい »


結構練習しました。どうだったでしょうか。



さてここで、皆さんにも手話をやってもらおうと「虹」という曲のサビの部分の手話を説明して練習。

 ♫ 虹が虹が 空にかかって 君の君の気分も晴れて

  きっと明日はいい天気 きっと明日はいい天気 ♫


ここを会場のお客さんにやってもらいました。

以前東京でのライブでもやってみたら、意外と皆さんちゃんとやってくださったのに気をよくして。


「虹」は子供の歌なのですが、数年前に「虹色カルテ」というドラマで取り上げられた曲で、知ってる方、馴染みの方もいたようです。虹の診療所チーム(高畑充希・北村拓海・井浦新)が歌ってました。


手話では“虹”は右手で7を作って空間に虹の形を描きます。このイラストで分かるかな。手話の数の表し方、空間の使い方も簡単に説明しました。自分の体より前が未来、後ろが過去、だから1を出して前に動かすと“明日”です。


手話の歌のこと。

手話は聞こえない人の言葉です。手話の歌は本来、聞こえない人に歌詞を伝え、一緒に歌を楽しむためのもの。でも私にとっての手話の歌はちょっと違います。私は東京に居た時、知的障害のある子どもたちの放課後活動の仕事をしていました。初めてそのクラブを訪ねた時、みんなで手話で歌っていたのです。自閉症や言葉を発しない子どもたちが、手を動かすことによって声を出さなくても歌に参加できる、そうか、こういう使い方があるんだと思いました。そこでは毎日の活動で必ず手話で歌う時間があって、自然と手話の歌が身に付いていきました。後に、自分で考えて歌に手話をつけるようになり、それが今の活動のベースになっています。子どもたちが真似してくれたように、大人も真似してくれるかなと思って「虹」やってみたら、みんな楽しそうに手を動かしてくれて、嬉しかったです


前半の最後は軽快に「Peace like a river」


♫ 見えない時間に 見えない場所で 見えない誰かを思い 

 目立たず知られず でもそれでいいんだ (歌詞奇妙礼太郎)


これはスタンダード?ゴスペル? とあるCMで使われていた曲です。

Peace  Love  Joy  大切です!


休憩を挟んで、後半は水野たかしソロ。


まずはやなぎの「ウイスキー」で幕開け。


♫ ウイスキー ウイスキー 光の水よ 

 俺をどこかへ連れてってくれ 

 ここじゃないどこかへ ♫


やなぎさんとは、ずいぶん前に高円寺の稲生座(=東京に居た時の水野のホームだった老舗のライブハウス)で知り合って長い付き合い。日本全国を歌いながら旅しているシンガーソングライターです。高円寺でも何度も出てもらって、千葉にもライブをしに来て、地元のミュージシャンと共演もしてくれました。


実は私はやなぎさんが大好きで、よくいろんなところのライブを聞きに行ってました。好きな曲もいっぱいあります。やなぎさんが一番好きだという名古屋・犬山のライブハウス「ふう」まで行ったこともあります。

水野は水野で、どこか共通する価値観があったようで、次第に距離を詰めていき、東日本大震災の直後にやなぎさんの車で東北を旅したり、彼が陸前高田のライブハウスで録音するのに付き合ったり。千葉のうちの小さなスタジオにもふらっとやってきて、一晩でデモを録っていったり。私たち夫婦にとってとても大切な人でした。

残念ながら、2022年に突然逝ってしまいました。水野より10歳も若いのに。


やなぎのアグレッシブな曲をもう2曲。

「いきるもののうた」


♫ 信じることをやめるな 疑うことをやめるな 

 届かぬものに手を伸ばし もがき続けることをやめるな ♫


「貧しい人々」


♫ パソコンの画面の中に 真実なんてない 真実を弄ぶ悪意があるだけだ 

 国の最高機関の議事録に 正義なんてない 正義を弄ぶ言葉が並んでいるだけだ 

 僕らはどうしてこんなに貧しくなったのか ♫


彼の言葉がまっすぐに突き刺さってくる、これぞやなぎ、今でも鮮烈です。


もう一人、石井明夫の歌を1曲。

「Sacred Mercy」


♫ 日が昇り 目覚めの時を知る 

 だが世界は争いを続けている‥‥

 選ばれし人よ 進め 自由をなすのに理由はいらない 

 選ばれし人よ 今 愛と勇気に言い訳は似合わない ♫


この曲、歌詞がすごい!マザーテレサもラマダライも出てくる。石井明夫は高円寺では超人気のとても高円寺らしいバンドマンです。

この曲は、水野が歌いたいと彼に言って、どんどんやっちゃってくださいと言ってもらった歌。ほかにも何曲か彼の歌やってます。


この後は「One more sonng」で一息ついて。


♫ 人生に引きずられておいら どこに行くのかこれから 

 おいら歌う おいらの旅に向けて たとえ夜が覆いかぶさろうと ♫


「あなたの星」


♫ 生きていた時は あなたは激しくて 

 求めて投げかけて 揺れて疲れ果てて 

 生きていた時は あなたはまっすぐで 

 まるで嵐のように駆け抜けて星になった           

 大いなるものと一つになった今

 はるかな高みから見ていておくれ 

 大いなるものと一つになった人 

 小さき人のために祈っておくれ ♫


水野は、星になって空から見ているであろうミュージシャンたちに捧ぐと言いました。その思いで歌い続けていると思います。

でも、詩を書いた私にとっては、これは16歳で天に召された男の子に捧げた歌。障害を持って生まれ、激しく、まっすぐに生きて、嵐のように駆け抜けて逝った彼。彼が亡くなった後、しばらくの間言葉のかけらだけ抱きしめていました。とある人が、「大丈夫、いつか形になるから」と励ましてくれて、その通りにやがて歌になりました。今でもこの曲を聴くたび、彼の笑顔を思い出し、涙しそうになります。


(私達は、私が詩を書いて水野が曲をつけるという形で歌を作っています。もう20年近くなるでしょうか。昔は詩のことで議論も喧嘩もしたけれど、最近はあまり闘わなくなりました。いいのか悪いのか、エネルギーがなくなってきたのかもしれませんね。)


最後は「あなたに」 一番新しい歌です。


♫ いつだって心は揺れる それでも笑っていよう 

 誰だって何か抱えて あなたはあなたでいい 

 今はただあるがままに 流れにまかせ何処へ 

 いつの日か終わりは来るけど その日も笑っていたい‥‥ 

 あなたに会えてよかった あなたにありがとう ♫


しっとり終わりました。


ありがたいことにアンコールもいただいて。いくつもの星が流れ」を歌いました。


♫ 明日は明日の風が吹くけど どうなっていくかは俺たち次第 

 いいことばかりが続かないけど 行く先真っ暗と決まっちゃいない ♫


これはヒロスケの曲。ヒロスケって知ってますか?メジャーデビューしてレコード出して、ちょっと名前が出て。兵頭ゆきの夫でもあり、長いことアメリカに行ってました。

実は水野たかしは、一時期ヒロスケと一緒に活動していました。ギターとボーカル水野、もう一人キーボードがいて3人で。ヒロスケのハスキーな高めの声と水野の硬質な声がうまく合わさって、なかなか魅力的なバンドでした。

私、なぜかこのバンド見たことあります。その頃は全然知らない人だったけど。


ヒロスケの名曲と言われているのが「いくつもの星が流れ」。西城秀樹がカバーしたこともありました。何十年も前の曲だけど、今聞いても全然古くない。

水野も折に触れて歌い続けてきました。うん、やっぱりいい曲でした!


というわけで、11月16日炎の雫・外房10年記念ライブのレポートでした。

11年目に入った炎の雫、これからもよろしくお願いします。


★余談ですが、現在公開中の映画「スプリングスティーン 孤独のハイウエイ」、とてもいい映画です。興味がある方、ぜひ見てください。 (2025年11月27日 水野佳)













 

2025年10月29日水曜日

秋の月・秋の味

10月6日は中秋の名月でした。

中秋の名月とは、旧暦の8月15日の月のこと。この日の満月が一番美しいと言われ、古くから月を愛でる日として親しまれてきました。旧暦と今の暦との違いから、中秋の名月は必ずしも満月ではないそうで、実際の満月は今年は10月7日、少し遅めでした。中秋の名月、2022年は9月10日だったので、結構ずれますね。中秋の名月と満月が一致するのは、次は2030年の9月12日だそうです。(前回一致したのは、2023年の9月29日、この絵はその時撮った写真をもとに描いたものです。)

 旧暦とは月の満ち欠けを基準にした暦、1年が354日となり、約3年に1度“うるう月”を設けて調整されます。


今年2025年10月6日の中秋の名月がこれです。天気が悪くて雲だらけ、すぐに隠れてしまうけど雲の流れも速くてまた顔を出す、その時に取った写真。まさに「月に叢雲」、これはこれで風情があります。月に叢雲の続き、知ってますか。「月に叢雲、花に風」美しいものにはとにかく邪魔が入る、世の中は思うようにはいかないという意味ですが、雲のかかった月も風にひらひら散る花も、どちらも情緒があっていい景色とも思えます。


今回の10月の満月はスーパームーンでもあると言われていました。スーパームーンって最近よく聞くようになっけど何?って思って調べてみました。

スーパームーンにははっきりした科学的定義はありません。日本の国立天文台では「地球に一番近い満月」と言っています。その年の満月のどれか一つが、その年の地球に一番近い満月になります。アメリカでは、月の近地点距離を基準としてある距離内にある満月。この場合は1年間に複数の満月がスーパームーンとなります。2025年は、10月、11月、12月の3回の満月すべてがスーパームーンだと言っているネット記事も多く見かけました。これアメリカ基準です。日本基準でいうところの今年の「地球に一番近い満月」、アメリカの基準による今年最大のスーパームーンは、実は11月5日です。満月となるのが22時19分、近地点を通過するのが翌6日の7時22分だそうです。観測したいなぁ、晴れることを願いましょう。

地球の周りを回っている月の軌道は楕円形です。月が地球に最も近づく近地点では地球との距離は35万 6000 km、もっとも遠い遠地点は40万6000km、この5万kmの差によって、月が大きく見えたり、明るく見えたりします。最大で14%大きく、30%明るく見えるそうです。上の資料は今年最大の11月5日の満月と今年最少の4月13日の満月を比べたもの。(国立天文台の提供)
因みに、一番小さい満月は、スーパームーンに対してマイクロムーンと呼ばれています。
満月それぞれに呼び名があって、10月はハーベストムーン(またはハンターズムーン)、11月はビーバームーン、12月はコールドムーン。基本はアメリカ先住民が季節を把握するためにつけた名に由来しています。日本では、月の満ち欠けに名前は付けるけれど、満月そのものに名前は付けていませんね。満月という言葉は英語のフルムーンからきたもの、本来は望月だったようです。

月にまつわる神話は世界各地にあります。
これはインドの神話をモチーフにゴンドアーティストが描いたタラブックスの「太陽と月」という絵本の1ページ。太陽と月は同じ母親から生まれた兄と妹だと書かれています。夫婦だと書かれているページもあります。どのページにも美しく繊細に描かれた太陽と月。見ているだけで癒やされます。
「夜の木」で有名なタラブックスですが、素敵な手作りの本は他にもたくさんあります。

日本の神話では、月の神はツクヨミ(月読命‐つくよみのみこと)。夜の国を治める神です。黄泉の国から帰ったイザナギが、穢れから身を清めるために禊払いをし、左の眼を洗った時生まれたのがアマテラス、右の眼を洗った時生まれたのがツクヨミ、鼻を洗ったとき生まれたのがスサノオ。アマテラスには高天原、スサノオには海原、ツクヨミには夜の国を治めるように命じました。ツクヨミについての物語は少なく、スサノオとツクヨミは同一神なのではないかという説もあります。ツクヨミが保食神(うけもちのかみ)を殺めてしまったことで、アマテラスはツクヨミの顔も見たくないと怒り、それをきっかけに二人は一日一夜を隔てて住むようになり、交代で天に現れるようになったということです。

一般に、太陽と月は対になっていて、片方が男神ならもう一方が女神とされることが多いようです。日本では太陽神アマテラスが女神で月神ツクヨミが男神。ギリシャ神話では太陽神は男性でヘリオス、月の女神はセレーネ―、または太陽神アポロンと月の女神アルテミス、この2人は双子の兄妹とされています。ローマ神話では太陽神ソル、月の女神がルナ。
世界中に様々な神話があり、そこには共通点もあって、とても面白いです。

月の話はこれくらいにして。ここからは秋の味。







まずはお米、新米です。
近所の人からいただいた新米、なんと玄米でした。今までいただていたものは精米されたお米だったのでびっくり。実は私、玄米を自分で炊いたことがありませんでした。この際だからやってみようと、ネットで検索して、初心者だから白米と混ぜるのがいいかなと思って、最初は玄米1:白米3で混ぜて、水は大目に、浸水時間は長めにして炊いてみました。うちの炊飯器には玄米の目盛りもあったので、混ぜたお米だけど、これでいいか、とやってみたら、ちょっと柔らかめだけどおいしい!玄米だからしっかり嚙まなくちゃと言いながらご飯食べて、なんだか新鮮。癖になりそうです。




秋と言えばお芋です。サツマイモがたくさん出回ってきました。
サツマイモは中南米原産。日本には江戸時代、琉球を経て鹿児島=薩摩の国に伝わったのでサツマイモ。鹿児島では、中国から伝わったから唐芋と呼ばれているとか。
今の日本には60種類以上のサツマイモがあって、トップ3は、紅はるか、安納芋、シルクスイート。サツマイモの生産量ナンバー1はコガネセンガン。言わずと知れた芋焼酎の原料です。

千葉県は鹿児島、茨木に次いでサツマイモ生産地の第3位です。千葉で作られているサツマイモは紅あずま、紅はるかが主。この写真は産直で買った紅はるかです。まずは煮て食べて。それからお菓子、スイートポテトケーキに。サツマイモのポテサラもいいですね。ネットで見たさつまいもごはん、炊飯器に洗ったサツマイモ2本ドーンと入れて炊き、炊き上がったらバターを入れて崩しながら混ぜるというやつ、今度やってみようと思っています。



こっちはサトイモ。
写真で見るとよくわからないけど、直径20センチ以上の大きなサトイモです。

見た目はほんとに里芋、っていうか味もちゃんとサトイモです。産直で90円でした。こちらは、鶏肉と煮ました。煮物はおいしいね。筑前煮とかもいいし、豚肉と煮ても、イカと煮ても、厚揚げと煮てもいい。
他には、サトイモのグラタンもおいしいです。ホワイトソースめんどくさいときは、レンジでチンして潰してチーズ掛けて焼くだけでOK 。サトイモコロッケもおいしいけど…しばらくコロッケって作ってないなぁ。

サトイモは東南アジア原産のタロイモの一種。こちらは日本での歴史は長く、イネより早く縄文時代には日本に伝播したとされています。平安時代にはすでに家芋(イエツイモ)と呼ばれて栽培されていたようです。暑さに強く、35℃くらいまでは大丈夫、でも霜に当たると枯れてしまうので、晩夏から秋に収穫される。お正月のおせちに入れるから、冬のものかと思ったけれど、今頃までのものなのですね。土に埋めておくとある程度もつみたいですが。





秋の果物、柿。うちには柿の木が2本あります。でも、渋柿でそのままでは食べられません。数年前までは干してました。私はいわゆる干し柿が苦手なので、切って干すスライス干し柿。ドライフルーツにしてそのまま食べたり、パウンドケーキに入れたり。ところが、最近は暑すぎて干しあがる前にカビがはえたり、腐っちゃったり。こんなところにも温暖化の影響かなんて思いつつ、柿採るのはやめてました。どうせ渋柿だし、ま、いいかと。
今年、ご近所さんから甘柿いただいたので、天日に干すのではなく、オーブンで焼いてみました。一番低い温度でじっくり時間をかけて、2~3時間焼いたかな、そしたらおいしいドライフルーツに。それからもう1種類、甘柿と言っても小さくて種も多く、そのままでは食べにくい。それで柿のコンポートにしたら、とてもおいしく食べられました。剥くのがちょっとめんどくさかったけどね。

そういえば、柿のお料理ってあまり知らないです。柿なますというのがあるけど、作ったことない。昔、夫が大道具の仕事をしてた頃、ちょっと変わった同僚がいて、(男性ですよ)お弁当に自分で柿なますを作って入れてくるという話を聞いて、へーぇと思ったことがあります。
要は普通のなますに柿を入れるということみたいですが、あんまりやろうとは思わないかな。

秋のおいしいもの、まだまだたくさんありますね。
なにかにつけて、その辺にあるものを無駄にしないで食べるには、手間をかけるしかありません。だんだん怠け者になって、なかなかやらないから、自戒しなくちゃと思います。

秋の味も、それから秋の空も、満喫しましょう。11月5日、今年最大のスーパームーン、ぜひ見てください。(2025年10月29日 佳)

2025年9月28日日曜日

棒高跳びの雑学~世界陸上を見て

 

2025年9月13~21日、東京で世界陸上が開催されました。今回の世界陸上で生まれた唯一の世界新記録、それはアーマンド・デュプランティス選手の棒高跳びの6メートル30センチ。この瞬間を目撃しました。(テレビでですが。)金メダルは6メートル15センチをクリアした時点で決まり、その後の世界記録への挑戦。15日の夜の最終競技となり、満員の国立競技場のお客さんは誰も帰ることなく、固唾を呑んで見守ります。そんな中で3回目の挑戦での成功。大興奮のフィナーレ、テレビで見てても神がかってる雰囲気は十分に味わえました。

デュプランティスは金メダルの賞金7万ドル(約1029万円)と世界記録のボーナス10万ドル(訳1470万円)、合わせて約2500万円を手にしました。凄い!


これはXで奇跡の写真と言われている1枚。世界記録の瞬間です。

私はそもそも長距離ファン、マラソンと駅伝はいつも見て、それ以外の陸上はあまり見なくて、オリンピックとか大きな大会で短距離やリレー見るくらいです。今回の世界陸上も、14、15日がマラソンだったので見て、その流れで15日夜のセッションに3000m障害があって、駅伝でお馴染みの三浦龍司選手が決勝に残り、メダル候補になってたので、それを見たくて中継を見てました。三浦選手の結果は8位で、その後妨害かと物議をかもすことになった試合でした。それが終わって、最後に残ったのが棒高跳びだったので、見てたら、はまっちゃいました。

棒高跳びといえば鳥人ブブカ。結構長くトップに君臨して、オリンピックなどでは敵なし、自分の記録の1センチ上を跳んで記録更新を続けてて、なんだかせこいと思ってました。ブブカの世界記録は5メートル94センチから実に17回、最後は6メートル15センチ、世界陸上は6連覇しています。このブブカに記録更新で迫っているのがデュプランティスです。ブブカの記録を破って2014年に6メートル16センチを出したフランスのラビレ二選手の世界記録を更新、2020年に6メートル17センチを跳びました。それ以来14回世界記録を更新し続け、今回6メートル30センチに至りました。

自分の記録の1~2センチ上を跳ぶのはブブカとおなじ、でもなんだか印象が全く違いますね。


棒高跳びの発祥の地はイギリス。川や運河、垣根などを超えるために棒を使ったことにあるとされています。羊飼いたちが遊びでやっていたとの説もあります。紀元前のアイルランドで行われていたティルティンゲームの一種だったという説も。

19世紀後半に競技化されました。

棒高跳びの記録が国際陸上競技連盟に初めて認められたのは1912年、この時の記録はアメリカのライト選手の4メートル2センチでした。


初期の棒高跳びでは木の棒が使われていました。その頃の記録は2~3メートル。木の棒に代わって、しなやかな竹が使われるようになって、記録は4メートル台になりました。

戦前、日本は棒高跳びの強豪国でした。それは良質の竹が豊富にあったから。1932年のロサンゼルスオリンピックでは西田修平が銅メダルを獲得、1936年のベルリンオリンピックでは、西田と大江孝雄が同記録で銀メダルと銅メダルを獲得しました。この時の記録は4メートル25センチ、2人は5時間を超える試合で疲労困憊し、2、3位決定戦を辞退。先にクリアしたした年長者の西田が2位、大江を3位と届け出て公式に認められました。帰国後、銀と銅のメダルを半分に割ってつなぎ合わせたメダルに作り直し、これは「友情のメダル」として永く語り継がれています。


戦後、1960年代になると、グラスファイバー製のポールが登場します。これによって、それまで高さの限界といわれていた16フィート(4メートル87センチ)がクリアされ、記録は5メートル台に入っていきます。棒高跳びの大革命でした。グラスファイバーはガラス繊維のことで、今の棒高跳びの棒・ポールは、グラスファイバーを用いたGFRP(ガラス繊維強化プラスチックとカーボンファイバーによるCFRP(炭素繊維プラスチック)などのいくつかの素材を組み合わせて作られています。竹はしなやかですが、曲げていけば折れる、でもGFRPのポールは360度曲げても折れない。しなやかさの度合いを調整していくこともできます。


実際のポールは、男子選手の場合、4~5メートル。硬すぎても柔らかすぎてもダメ。反発力を生かすには曲がり角度が90度を超えないようなポールを選ぶのがいい。


棒高跳びは、助走をつけて、ポールを「ボックス」と呼ばれる地面の穴に差し込み、その反発力でバーを飛び越える競技です。そうか、ポールを入れるところは決まってるのか。

ネットで見つけた中学生の記事で、彼らは初めはポールを突っ込むことも、ポールにぶら下がることも怖かったとありました。そうだよね、怖いよね。因みに中学生の記録のトップは4メートル60センチ。一般の住宅の2階の窓あたりが4メートルなのでその上くらいの高さ、6メートルだとビル3階分ある、高いよね。


競技ではバーに体が触れても落ちなければ成功ですが、ポールがバーに触れたら失敗。だから跳ぶと同時に、バーを走ってきた方に押し戻す技術も必要。空中で姿勢を変えるので、体操競技のような技術も必要らしい。


ポールの長さ

やり投げの時、解説者がやたらと槍の長さは2メートル60センチって言ってたので、棒高跳びの棒はどのくらいの長さかなと思って調べたら、ポールの長さに規定はないとわかりました。太さも材質も重さも硬さも、規定は何もありません。へーぇそうなんだ。

一般に4~5メートルのポールが多く使われています。選手はバーの高さや状況によって使い分けていて、一人数本持っていくようです。だいたいはバーの高さに応じてポールも長くなる。でもね、何メートルのポールを使っているかは公表されていません。今回のデュプランティスの世界記録についても、調べてもわかりませんでした。


ポールの値段は1本数万円~2~30万円もするものもあります。それを一人数本持つのは大変。そのため、国産の良質で安価なポールの開発に取り組んでいる研究者(元競技者で指導者でもある)もいるようです。


*余談ですが、やり投げの槍は電車でも新幹線でも持ち込めます。本当は2メートル以内とされていますが、2メートル程度で車内で立てておけるものはOK です。実際女子選手の槍は2メートル20~30センチ、2メートル60は男子です。


ポールの運搬

さて、5メートルもあるポールをどうやって運ぶのかという問題。もちろん折りたためないし、分解もできません。そのまま運ぶしかない。

ポールはケースに入れて運びます。このケースも結構いい値段、5本入りで4万円くらい。


運送の方法は、近場だと車、遠方だと配送会社に依頼する、海外だと飛行機。

車の場合は、屋根にのっけて固定するとか、大きめの車やトラックを手配するとか。一般に、運べる貨物の長さは、車長プラスその10%までと決められていますが、警察に許可申請書を提出して許可を受ければ車で運べます。その申請書を掲示し、貨物に縦横30センチ以上の赤い布をつけることで、ポールを運搬することができる、これを赤旗申請と言うみたいです。手数料はかかりません。

ポールを載せて公道を走っていると注目の的になるそうです。


地方の場合、部活で電車で運ぶこともあるらしい。その場合は、人に迷惑がかからないよう、うんと朝早くに集合し、複数人で運び込んでせーので一気に荷台に上げるとありました。競技場内で運ぶのも数人で。チームで助け合いながら。

試合前にすでに疲れるそうです。


運送会社に頼む場合は数日かかるし、競技場のどこに保管されるかなどを把握しておく必要があります。試合の時は、運送会社のブースがあって終了後に配送を頼める場合もあります。よく使われているのは佐川急便、ただし5メートル以下。5メートル以上だと西濃運輸。ヤマトはダメみたいです。

たまに、ケースを間違えるとか、届くはずが届いていないなどの事件も起こります。


海外へ運ぶ場合は、大型手荷物として事前に申請が必要です。海外の試合でもポールが届いていないという例もあるようです。そのため、保険を掛けたり、ポールにGPSをつける選手もいるとか。


競技人口

棒高跳びの競技人口はどれくらいいるのか、これがまた、全然わかりません。国内も世界も、検索しても出てきません。例えば世界では、陸上愛好家は何億人もいたとしても(日本では1000万人、アメリカでは3000万人と言われています)競技者として陸連に登録している人となるととても少ない、ましてや棒高跳びは競技人口少ないベスト3に入る程、かなり少ないのだろうとわかっただけです。


国内では、陸連に登録している競技者が42万人ほど、その中で棒高跳びのランキングでは、一般が440人、高校生が420人、中学生が380人ほど、合わせて1400人ほどでした。陸連以外であとどのくらいいるかわからないけれど、たいしていないでしょうね。

棒高跳びで県内予選に行ったら、5人とか7人とかだったって話はよくあります。

なので全国大会に行きやすいという話もあるけど…。


日本記録は2005年に澤野大地が出した5メートル83センチ。20年も破られていません。2025年のトップは江島雅紀の5メートル70センチ。今回の世界陸上の参加標準記録は5メートル82センチだったので、日本人は誰も達せず、世界陸上への参加はできませんでした。


今年のランキングでの高校生の記録は、1メートル50センチ~5メートル21センチ、中学生は1メートル60センチ~4メートル60センチとなっていました。

なお、世界には2023年6月の時点で、6メートル越えのボウルターが24人いるそうです。世界は遠いですね。


棒高跳びの選手はボウルターと呼ばれます。これに対して、走り高跳びの選手はジャンパーと呼ばれます。


日本記録保持者の澤野大地さんがネットで紹介していたのですが、棒高跳びの関係者で作るNPO 法人ボウタカが運営しているボウタカチャンネルというサイトがあって、そこで棒高跳びに関する様々な記事を扱っています。そこでは、棒高跳びに関する情報の収集、研究と情報提供を行っています。競技のできる場所を掲載したボウタカマップというのもあり、これから棒高跳びを始めたい方にも参考になりそうです。


今回そのサイトを参考にさせていただき、写真も使わせていただきました。(今回の記事の写真はほぼネットからのもの、不鮮明かもしれませんがお許しください。)


最後に、再びデュプランティス選手を。

デュプランティスはまだ若い25歳。

ルックスもよく、婚約者は超美人で話題に事欠かず。試合後、彼女と日本を満喫しているようです。

ポッキーが好きなんですって、かわいいですね。


この先、6メートル30センチの記録をどこまで更新するのか、楽しみです。


(2025年9月28日 水野佳)













炎の雫・外房10年記念ライブ

炎の雫が外房に移転して、この秋で10年を超えました。 (私たちがいすみに移住したのが2015年6月、炎の雫の再開店が10月でした。) これを記念して、11月16日の午後、「炎の雫・外房10年記念ライブ~気がつけば 時は過ぎゆき~」を開催しました。 最近のライブでやっている歌と手話...