2025年1月29日水曜日

2025年初旅 アート編

2025年初旅の3日目、愛知県美術館で開催中の「パウル‣クレー展 創造をめぐる星座」へ。

これがこの旅の目的でした。この展覧会関東には来ないのです。クレー好きの私としては、どうしようかなと思ったけれどやっぱり行っちゃおうとなりました。行ける時に行かなくちゃ。(この展覧会、一部を除き写真OK なので、すべて私が撮った写真です。)

冒頭に掲げられたのは「殉教者の頭部」1933年 【6.新たな始まり】から


この展覧会は、年代に沿って6つのテーマに分けられ、順に並べられていて、クレーの画家としての変遷がよくわかります。

クレーは1879年スイスのベルン近郊で生まれました。彼の家は文化的な雰囲気に溢れ、若き日のクレーは音楽や詩作、絵画にも秀でていました。19歳の頃画家になろうと決めてミュンヘンへ留学。苦労してミュンヘン美術アカデミーに入るも、その保守性に嫌気がさして退学。その後エッチング作品群≪インヴェンション≫発表。

「喜劇役者-インヴェンションより」1905年     【1.詩と絵画】から

初期のクレーは、まず線から始まって、次に明暗の表現へと向かいます。インヴェンション制作当時は19世紀のロマン主義の影響を受け、インヴェンション後は同時代のモダニズムに目を向け始めました。1911年、クレーはたまたま近所に住んでいたカンディンスキーと交友を開始。「青騎士」の第1回展覧会を見て大いに評価し、第2回展覧会に出品。この展覧会にはピカソやブラック、ドローネーなどのキュビストたちも出品しています。

ヴァシリー・カンディンスキー 「赤の前にいる二人の騎士たち-響きより」1911年 
【1.詩と絵画】から

1914年、クレーは青騎士の画家アウグスト‣マッケと友人の画家ルイ・モワイエと共にチュニジアを旅行します。彼らはフランスの前例美術への関心をクレーと共有し、彼らとの濃密な時間とチュニジアの光の中で、色彩に開眼。「色彩が私を捉えたのだ。」

「チュニスの赤い家と黄色い家」1914年
【2.色彩の発見】から


この2のコーナーには、クレーに影響を与えた画家たちの作品も展示されています。パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、ロベール・ドローネー。キュビズムでおなじみの画家たち。

この作品は、
ジャコモ‣バッラ「太陽の前を通過する水生のための習作」
1914年 バッラはイタリア未来派の画家、彫刻家。


クレーがチュニジア旅行から帰って間もなく、ヨーロッパは第一次世界大戦へ突入。青騎士のメンバーも母国へ帰国したり、従軍して戦死したり。クレーも徴兵され、飛行機の整備士として働きました。戦時中も作品制作を続け、作品の抽象性は高まってゆきます。

「アフロディテの解剖学」1915年 
【3.破壊と希望】から 

この作品は描かれた作品の左右の部分をはさみで切断し、残された中央部です。切り離された部分も上下をひっくり返して中央に余白を残して台紙に貼り、もう一つの作品を作り上げています。


「淑女の私室でのひとこま」1922年
【3.破壊と希望】から

この作品は油彩転写という技法が使われています。クレーが戦後に開発した独自の技法。
黑い油絵具を塗った紙の上に白い紙を置き、その上にあらかじめ描いた素描を重ねてその線を針でなぞって白い紙に描線を転写した後、水彩絵具で彩色する方法。油絵具をカーボン紙みたいに使うのです。


フランツ・マルク 「冬のバイソン(赤いバイソン)」1913年
【3.破壊と希望】から

マルクは第一次世界大戦に騎兵として参加。戦争中、画力を利用され迷彩塗装に携わりました。空からの監視を逃れるため、布のターフを点描様式で塗装。効果に疑問を覚えながらも喜びを覚えたそう。マルクは36歳で戦死しました。
彼が生き延びていたら、どんな絵を描いていたんだろうと思ってしまいます。

戦死したマルクの代わりとなる表現主義の芸術家と位置づけられ、クレーの名は高まっていきます。大手の画廊と契約し、大規模な個展が開かれます。評論家ツァーンは「パウル・クレー 生涯、作品、精神」を出版、クレーを孤独に宇宙的な力を瞑想する芸術家として、老子、孔子を引用し東洋思想と結びつけました。

「バラの風」1922年
【4.シュルレアリスム】から


クレーの名はフランスにも知れ渡り、シュルレアリストの詩人や画家も注目。1924年『シュルレアリスム宣言』では、この運動の先駆者として、ジョルジュ・デ・キリコと共にクレーの名が挙げられました。シュルレアリスム絵画展にクレーの作品が出品されたりもしたが、クレー自身がシュルレアリストを自称することは一度もありませんでした。

「周辺に」1930年 【4.シュルレアリスム】から

1919年、ドイツの文化都市ワイマールに、芸術と生活を合わせた建築を基軸とし、絵画、彫刻、工芸などの造形活動の統合を目指す総合芸術学校バウハウスが設立されます。クレーはこの学校に教師として迎えられました。ヨーロッパ各地から芸術家が集まり、そこにはカンディンスキーもいました。クレーは色彩論を講義し、構成主義を取り入れつつ、作品制作も続けます。

「岩塊の風景-シュロとモミの樹のあある
1919年 【5.バウハウス】から


これはカンディンスキーがクレーに送ったもの。
ヴァシリー・カンディンスキー「たのしき飛翔」1923年
【5.バウハウス】から

バウハウスで同僚の教師となったクレーとカンディンスキーは、互いに尊敬しあう仲で、お互いの誕生日に絵を贈り合っていたといいます。いいなぁ、そういうの。




「蛾の踊り」1923年 【5.バウハウス】から

クレーの色彩論は独特なもので、水平面上に色彩環を置き、その上下に白と黒の極を置く立体的なものです。すべての色彩は、立体的な秩序の中に位置付ることが可能。クレーは色彩環の円周上の回転運動、直径上の振り子運動、さらに白と黒の両極の間の垂直運動を想定しています。すごい理論家。

この作品では、やや暗い青から色彩の極北としての白への移動が、垂直方向と水平方向で繰り返されています。この作品には前述した油彩転写の技法も使われています。

「大聖堂 東方風の」1932年
【5.バウハウス】から

バウハウスの時期、クレーは数学的、幾何学的な法則性に基づく構成主義の作品をいくつも残しています。けれど、幾何学的であってもどこかに自然や有機物とのつながりが感じられます。この作品は建物がまるで生きてるみたい。


「ゴルゴダへの序幕」
1926年の作品ですが、次のゾーン【6.新たな始まり】に展示されていました。
この作品はクレーの線描的表現の新たなヴァリエーションでもあるけど、まるでバウハウス後の世界を暗示しているようでもあります。

バウハウスでの教師生活は10年ほど続き、デュセルドルフ美術アカデミーに移っていたクレーは、1933年、ヒットラーが首相となると、非ドイツ的とみなされて停職となり、弾圧を受けて、故郷スイスへ亡命します。




1935年、追い打ちをかけるように病魔が襲います。原因不明の病(自己免疫疾患)で一時は制作もままならないほど症状が悪化。1940年に亡くなるまで、苦痛や死の予感を思わせる表現が作品に多々現れます。
また、この時期は、記号化された表現が多く見られます。この状況下で、さらに新しい表現へ。

「回心した女の堕落」1939年 
【6.新たな始まり】から
この作品ではバラバラに分断された身体の部分が自由に組み替えられています。




「恐怖の発作Ⅲ」 1939年 【6.新たな始まり】から

晩年のクレーは、展覧会への出品を1933年以降の作品に絞って、様式の大転換を前面に打ち出します。自らおのれの既存の芸術家像を刷新していきました。
この戦略は、クレーが、ナチ政権下のドイツに変わる市場と見たアメリカで功を奏し、ニューヨークの画廊でクレーの作品がたびたび紹介されるようになり、1930年代にはニューヨーク近代美術館で個展が開かれました。




「無題(最後の静物)」1940年
【6.新たな始まり】から

1939年には、年間制作数で生涯最も多い1253点の作品を制作する。1940年にはチューリッヒ美術館で個展、すべて1933年以降の作品で。そのが体調悪化により療養所に入り、1940年6月、その生涯を閉じました。

展覧会行って、観て、調べて、クレーの一生を辿った旅。よいアート初めになりました。
やっぱり行きたいと思った時は行くのが正解です。
(2025年1月29日 水野佳 今年もよろしく!)







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