2025年1月29日水曜日

2025初旅 伊勢・鳥羽篇



2025年の初旅は伊勢神宮、鳥羽水族館、そして名古屋の愛知県美術館の「パウル・クレー展」に行ってきました。

何だか盛りだくさんになってしまいましたが、行ける時に行かなくちゃと思って。

私は実は人生初のお伊勢さん詣で。関西出身の夫は遠足か何かで行ったことはあるらしいけど何十年ぶりとか。初日は名古屋経由、近鉄で五十鈴川駅へ。今回は、イレギュラーですが内宮から外宮のルートをとりました。

伊勢神宮は通称で正式には神宮。神宮は、内宮、外宮、14社の別宮、43社の摂社、24社の末社、42社の所管社の合わせて125社の集合体です。伊勢市の約4分の1を占める広大な神宮の森、世田谷区とほぼ同じ広さだそうです。
駅から内宮への途中、まずは猿田彦神社にお参り。それからおかげ横丁に立ち寄りました。にぎわってます。

なにはともあれ、伊勢うどん食べなくちゃ。あちこちで行列ができててうどん屋さんも並んでる。並んでみたら、回転が速くてそんなに時間かからず。これは温玉入りの伊勢うどん、700円也。太くて柔らかい麺とたまり醤油の黑いたれが特徴。柔らかいのは旅人の胃にやさしいように。40分~1時間も茹でるとか。どうかなと思ったけど、意外とおいしい。なるほどね。
伊勢うどんの名付け親は永六輔だなんて話もあります。その前はただのうどんと呼ばれていたみたいです。

おかげ横丁からお祓い町を抜けて内宮へ。内宮の入り口、五十鈴川にかかる宇治橋は日常から神の世界への懸け橋。全部木でできています。床板や欄干は檜、橋脚は水に強い欅。昔は傷みがひどい時に架け替えていましたが、明治時代から式年遷宮の4年前に架け替えが行われるようになったそうです。
この写真は宇治橋の上から五十鈴川を撮ったものです。

内宮に入ってすぐ、酒樽がずらりと奉納されています。10月1日の日本酒の日から1月末まで飾られるようです。
10月の神嘗祭では神職が白酒(しろき)、黒酒(くろき)、醴酒(れいしゅ‐ひとよざけ)を作り、酒蔵から献酒された清酒を加えて4種類の御料酒を奉納します。「御神酒をあがらぬ神はいない」、神様はお酒好きなんですね。

内宮の正宮、皇大神宮(こうだいじんぐう)。御祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)。約2000年前にこの地に祀られました。全国の神社の中心。
ご神体は三種の神器の一つ八咫鏡(やたのかがみ)。

この写真は皇大神宮の入り口、階段から先は撮影禁止になっています。よくテレビの旅番組とかでもここからは撮影NGなので、って言ってるのがここ。平日だというのに、人出が多くてびっくりしました。どんどん人がお詣りに来ます。さすが伊勢神宮。一生に一度はお伊勢参りと謳われた頃から、現在も続く人気です。
内宮の敷地内には荒祭宮(あらまつりのみや)と風日祈宮(かぜひのみのみや)という2つの別宮があります。

皇大神宮にお参りし、降りる道は両側にあるのに、なぜか人々は手前の方の道をとる、なので奥側の道を降りてみたら、人のいない荘厳な雰囲気を味わえました。あるのはただ木々のみ。いいなぁ、こういうの大好きです。人の多い内宮にちょっと辟易していましたが、ぽっかりと開いた空間に入り込んでみたら、ここは神の領域なんだと実感できました。

内宮からバスで外宮に向かいました。
内宮がきれいに整えられた聖域だとすると、外宮はもっと自然の中にある感じ。ひっそりと佇む社と鬱蒼と茂る木々。そこここに何かの気配を感じます。こういうところ、私は大好きです。個人的には断然外宮!何度も来たくなる場所です。

なぜか内宮は右側通行、外宮は左側通行という慣わしがあります。お清めをする御手洗場が内宮は右側、外宮は左側にあるからそうなったともいわれています。

外宮の正宮は豊受大神宮(とようけだいじんぐう)。御祭神は豊受大御神(とようけのおおみかみ)、天照大神のお食事をつかさどる御饌都神(みけつかみ)で、衣食住、産業の守り神です。夕方近かったせいか、内宮に比べると人は少なく、お詣りの方もちらほら。静謐で荘厳。とても素敵です。
外宮には、多賀宮(たかのみや)、土宮(つちのみや)、風宮(かぜのみや)という3つの別宮があります。

豊受大神宮は、内宮が祀られて500年後、今から1500年前に丹波の国から迎えられました。以来、天照大神や他の神々に食事を備える日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)が今もずっと続けられています。伊勢神宮では年間1500回のお祭りがおこなわれています。すごい、一日4回以上、そのうちの2回はこのお食事の祭り。

外宮には魅力的な木がたくさんあります。木が大好きな私は、思わず見惚れてしまいます。樹齢400年を超える木、900年なんてものもあります。木々の中、ずーっとここに居たい。

余談ですが、去年の秋に放映された「全領域以上解決室」というドラマ。藤原竜也が演じた興玉神(おきたまのかみ)は伊勢神宮内宮の守護神。内宮の御垣内に鎮座しています。調和や成長を象徴し、人間の善悪を見定める力を持ち、魂を導き甦らせる神とされているとのこと。ドラマで描かれてたのはちゃんと言い伝えに則っていたのですね。全領域以上解決室、略して『全決』、斬新で面白かった!

最後に、外宮の御厩の窓の向こうの木々。まるで絵のようです。内宮、外宮、2頭ずつ飼育されている神馬は、毎月1、11、21日の8時ころ正宮に赴くそうです。この日は馬の姿はありませんでした。

伊勢神宮、一度は行ってみる価値あり、素敵なところでした。因みに、外宮から内宮の順にお参りするのが昔からの慣わし。

伊勢で一泊し、翌日は鳥羽水族館へ。
鳥羽水族館は30年ぶりくらい。子供が小学生だったころ、一度来たことがあります。その時はO157で大騒ぎの時で、ホテル(旅館?)のごはんが生もの一切なし、せっかく鳥羽に来たのに、お刺し身なしで焼き魚煮魚ばっかり、がっかりしたのを覚えています。
今回は鳥羽で泊まらないので、またしても海の幸は味わえず。残念。

鳥羽水族館、飼育数は約1200種。面白い海の生き物がいっぱいいます。
AからLの12のゾーンに分かれ、それぞれにテーマがあります。この写真はEの「伊勢志摩の海・日本の海」から、伊勢海老とウツボです。どちらも高級食材。
伊勢海老は伊勢で一番とれるのかと思ったら、実は千葉が漁獲量日本一、千葉で獲れたのは房州エビと呼ばれます。

写真が何とか撮れておもしろいものたち。

でっかいミズダコ。最初は隅でじっとしてて、ぬわーと動き出しどんどん広がっていきました。
夫は動画撮ってました。動画の方がおもしろそう。


Fの「ジャングルワールド」から。シルバーアロワナ。野生では最大1.2mになる。
長いのはデンキウナギ。デンキウナギは実は感電してるけど、脂肪が多くてそれが絶縁体になるためダメージは受けないそうです。どちらもアマゾンにいます。



C「古代の海」から、オウムガイとハイギョ。オウムガイは5億年も前から現在も生きている“生きている化石”。フィリピンやオーストラリアの深海に棲んでいて生体は謎。パラオウムガイを飼育しているのは国内では鳥羽水族館のみ。ハイギョも生きている化石の一つ。肺があって肺呼吸する両生類に近い魚です。顔がかわいい。

鳥羽水族館と言えばジュゴン。
30年前ここを訪ねたのも、ジュゴンとマナティを見たかったから。当時は何頭かのジュゴンがいたと思うのですが、今はただ1頭。日本でジュゴンがいる水族館は鳥羽だけ、世界中でも2頭しかいない、そのうちの1頭が鳥羽のセレナ、推定37歳。ジュゴンのエサは海の中ではアマモなどの海藻、水族館ではロメインレタスや週1で輸入している海藻を一日30㎏も食べています。餌代が大変。


こちらはマナティ。鳥羽にいるのはアフリカマナティで、日本ではここだけ。3頭飼育されていましたが、1996年にやってきたメスのはるかが2014年に、オスのかなたは2024年に亡くなり、今いるのは2010年にやってきたメスのみらいだけ。マナティも1頭しかいなくなりました。アメリカマナティが、沖縄の美ら海水族館に4頭と高松の新屋島水族館に2頭居ます。会いに行きたいな。



鳥羽水族館には海獣がたくさんいます。イルカやアザラシ、アシカ、セイウチ、ラッコなどなど、その中からゴマフアザラシとセイウチ。セイウチはとってもおもしろい、なんだこれって感じです。見てて飽きない。


パフォーマンスはアシカのショーでした。ボールやリングを使って、前足(ひれ?)で拍手を促すユーモラスな姿。出演者は1頭だけで、トレーナーのお姉さんとやり取り。なかなかかわいらしい。
でもね、ここだけの話、ショーはカモシー(鴨川シーワールド)の方が断然上です。鳥羽はショーなんかよりも飼育や研究に力を入れてるんでしょう。それはそれで。
鳥羽水族館、記憶ではもうちょっと広い気がしてたのだけれど、カモシーの方が大きいかも。

Gの「奇跡の森」ゾーンには、ヘビとかトカゲとかカエルとかカメとかの珍しい種がたくさんいました。へぇ~こんなのがいるんだ、おもしろい、の連発。その中から、イグアナとコバルトヤドクガエル。他にも、赤いのやいろんなカラフルなカエルいました。






きりがないので、最後はこれで。シードラゴンです。
何だか不思議な生き物、作り物みたい。水の中にはまだまだ私の知らない生き物がたくさんいるのですね。

水族館も大好き!行きたいところいっぱいあります。筆頭は沖縄の美ら海水族館。江の島水族館も新になってから行ってない、なのにもう20年経っちゃったみたいです。あちゃ~。マナティのいる高松の水族館も行きたいけど…。

水族館から名古屋へ出て1泊。明日は今回のメインイベント、「パウル・クレー展 想像を巡る星座」へ行きます。…続く…






2025年初旅 アート編

2025年初旅の3日目、愛知県美術館で開催中の「パウル‣クレー展 創造をめぐる星座」へ。

これがこの旅の目的でした。この展覧会関東には来ないのです。クレー好きの私としては、どうしようかなと思ったけれどやっぱり行っちゃおうとなりました。行ける時に行かなくちゃ。(この展覧会、一部を除き写真OK なので、すべて私が撮った写真です。)

冒頭に掲げられたのは「殉教者の頭部」1933年 【6.新たな始まり】から


この展覧会は、年代に沿って6つのテーマに分けられ、順に並べられていて、クレーの画家としての変遷がよくわかります。

クレーは1879年スイスのベルン近郊で生まれました。彼の家は文化的な雰囲気に溢れ、若き日のクレーは音楽や詩作、絵画にも秀でていました。19歳の頃画家になろうと決めてミュンヘンへ留学。苦労してミュンヘン美術アカデミーに入るも、その保守性に嫌気がさして退学。その後エッチング作品群≪インヴェンション≫発表。

「喜劇役者-インヴェンションより」1905年     【1.詩と絵画】から

初期のクレーは、まず線から始まって、次に明暗の表現へと向かいます。インヴェンション制作当時は19世紀のロマン主義の影響を受け、インヴェンション後は同時代のモダニズムに目を向け始めました。1911年、クレーはたまたま近所に住んでいたカンディンスキーと交友を開始。「青騎士」の第1回展覧会を見て大いに評価し、第2回展覧会に出品。この展覧会にはピカソやブラック、ドローネーなどのキュビストたちも出品しています。

ヴァシリー・カンディンスキー 「赤の前にいる二人の騎士たち-響きより」1911年 
【1.詩と絵画】から

1914年、クレーは青騎士の画家アウグスト‣マッケと友人の画家ルイ・モワイエと共にチュニジアを旅行します。彼らはフランスの前例美術への関心をクレーと共有し、彼らとの濃密な時間とチュニジアの光の中で、色彩に開眼。「色彩が私を捉えたのだ。」

「チュニスの赤い家と黄色い家」1914年
【2.色彩の発見】から


この2のコーナーには、クレーに影響を与えた画家たちの作品も展示されています。パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、ロベール・ドローネー。キュビズムでおなじみの画家たち。

この作品は、
ジャコモ‣バッラ「太陽の前を通過する水生のための習作」
1914年 バッラはイタリア未来派の画家、彫刻家。


クレーがチュニジア旅行から帰って間もなく、ヨーロッパは第一次世界大戦へ突入。青騎士のメンバーも母国へ帰国したり、従軍して戦死したり。クレーも徴兵され、飛行機の整備士として働きました。戦時中も作品制作を続け、作品の抽象性は高まってゆきます。

「アフロディテの解剖学」1915年 
【3.破壊と希望】から 

この作品は描かれた作品の左右の部分をはさみで切断し、残された中央部です。切り離された部分も上下をひっくり返して中央に余白を残して台紙に貼り、もう一つの作品を作り上げています。


「淑女の私室でのひとこま」1922年
【3.破壊と希望】から

この作品は油彩転写という技法が使われています。クレーが戦後に開発した独自の技法。
黑い油絵具を塗った紙の上に白い紙を置き、その上にあらかじめ描いた素描を重ねてその線を針でなぞって白い紙に描線を転写した後、水彩絵具で彩色する方法。油絵具をカーボン紙みたいに使うのです。


フランツ・マルク 「冬のバイソン(赤いバイソン)」1913年
【3.破壊と希望】から

マルクは第一次世界大戦に騎兵として参加。戦争中、画力を利用され迷彩塗装に携わりました。空からの監視を逃れるため、布のターフを点描様式で塗装。効果に疑問を覚えながらも喜びを覚えたそう。マルクは36歳で戦死しました。
彼が生き延びていたら、どんな絵を描いていたんだろうと思ってしまいます。

戦死したマルクの代わりとなる表現主義の芸術家と位置づけられ、クレーの名は高まっていきます。大手の画廊と契約し、大規模な個展が開かれます。評論家ツァーンは「パウル・クレー 生涯、作品、精神」を出版、クレーを孤独に宇宙的な力を瞑想する芸術家として、老子、孔子を引用し東洋思想と結びつけました。

「バラの風」1922年
【4.シュルレアリスム】から


クレーの名はフランスにも知れ渡り、シュルレアリストの詩人や画家も注目。1924年『シュルレアリスム宣言』では、この運動の先駆者として、ジョルジュ・デ・キリコと共にクレーの名が挙げられました。シュルレアリスム絵画展にクレーの作品が出品されたりもしたが、クレー自身がシュルレアリストを自称することは一度もありませんでした。

「周辺に」1930年 【4.シュルレアリスム】から

1919年、ドイツの文化都市ワイマールに、芸術と生活を合わせた建築を基軸とし、絵画、彫刻、工芸などの造形活動の統合を目指す総合芸術学校バウハウスが設立されます。クレーはこの学校に教師として迎えられました。ヨーロッパ各地から芸術家が集まり、そこにはカンディンスキーもいました。クレーは色彩論を講義し、構成主義を取り入れつつ、作品制作も続けます。

「岩塊の風景-シュロとモミの樹のあある
1919年 【5.バウハウス】から


これはカンディンスキーがクレーに送ったもの。
ヴァシリー・カンディンスキー「たのしき飛翔」1923年
【5.バウハウス】から

バウハウスで同僚の教師となったクレーとカンディンスキーは、互いに尊敬しあう仲で、お互いの誕生日に絵を贈り合っていたといいます。いいなぁ、そういうの。




「蛾の踊り」1923年 【5.バウハウス】から

クレーの色彩論は独特なもので、水平面上に色彩環を置き、その上下に白と黒の極を置く立体的なものです。すべての色彩は、立体的な秩序の中に位置付ることが可能。クレーは色彩環の円周上の回転運動、直径上の振り子運動、さらに白と黒の両極の間の垂直運動を想定しています。すごい理論家。

この作品では、やや暗い青から色彩の極北としての白への移動が、垂直方向と水平方向で繰り返されています。この作品には前述した油彩転写の技法も使われています。

「大聖堂 東方風の」1932年
【5.バウハウス】から

バウハウスの時期、クレーは数学的、幾何学的な法則性に基づく構成主義の作品をいくつも残しています。けれど、幾何学的であってもどこかに自然や有機物とのつながりが感じられます。この作品は建物がまるで生きてるみたい。


「ゴルゴダへの序幕」
1926年の作品ですが、次のゾーン【6.新たな始まり】に展示されていました。
この作品はクレーの線描的表現の新たなヴァリエーションでもあるけど、まるでバウハウス後の世界を暗示しているようでもあります。

バウハウスでの教師生活は10年ほど続き、デュセルドルフ美術アカデミーに移っていたクレーは、1933年、ヒットラーが首相となると、非ドイツ的とみなされて停職となり、弾圧を受けて、故郷スイスへ亡命します。




1935年、追い打ちをかけるように病魔が襲います。原因不明の病(自己免疫疾患)で一時は制作もままならないほど症状が悪化。1940年に亡くなるまで、苦痛や死の予感を思わせる表現が作品に多々現れます。
また、この時期は、記号化された表現が多く見られます。この状況下で、さらに新しい表現へ。

「回心した女の堕落」1939年 
【6.新たな始まり】から
この作品ではバラバラに分断された身体の部分が自由に組み替えられています。




「恐怖の発作Ⅲ」 1939年 【6.新たな始まり】から

晩年のクレーは、展覧会への出品を1933年以降の作品に絞って、様式の大転換を前面に打ち出します。自らおのれの既存の芸術家像を刷新していきました。
この戦略は、クレーが、ナチ政権下のドイツに変わる市場と見たアメリカで功を奏し、ニューヨークの画廊でクレーの作品がたびたび紹介されるようになり、1930年代にはニューヨーク近代美術館で個展が開かれました。




「無題(最後の静物)」1940年
【6.新たな始まり】から

1939年には、年間制作数で生涯最も多い1253点の作品を制作する。1940年にはチューリッヒ美術館で個展、すべて1933年以降の作品で。そのが体調悪化により療養所に入り、1940年6月、その生涯を閉じました。

展覧会行って、観て、調べて、クレーの一生を辿った旅。よいアート初めになりました。
やっぱり行きたいと思った時は行くのが正解です。
(2025年1月29日 水野佳 今年もよろしく!)







十和田市現代美術館 

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